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2011年02月10日(木)
『浮標』2回目

葛河思潮社『浮標』@吉祥寺シアター

もともとはこの回が千秋楽で、だから休みもらってでも平日マチネのチケットとったんですが、その後追加公演が出てホントの千秋楽は13日(日)になったと言う(笑泣)。うう、この休みをもらうために前日のソウルセット諦めて仕事片付けたわよー。と言う訳で前説で長塚くんが「元千秋楽へようこそ」とか言ったのにムキーとなった(笑)。

そうなんです、この公演、全員キャストが出てきて並んだ上で、長塚くんが前説を始めるところから上演がスタートするんです。上演時間についてや携帯をオフに等の諸注意をした後、作品の時代背景を説明して、その上で「ト書きには『時は現代』となっているので、この芝居も現代から始まります」と言う。その後、キャストが周囲を囲んで見守るなか、白い砂が敷き詰められた上演エリアへ五郎役の哲司さんが裸足で降りていく。芝居が始まると、キャストは両端に設置されている椅子に座って、エリアで行われる芝居を見守る。

エリア内では「そこにいないひとについて」話される。戯曲の構造からすれば、本来その言葉たちを当人たちは聴いていないことになっている。しかし、エリア脇の椅子に座って当人が話を聴いている、と言う演出を長塚くんは加えた。顕著に効果が出ていたのは、赤井と五郎、美緒が赤井の妻である伊佐子について話す場面。戦地へ赴くことが決まった赤井は、自分の家の者と折り合いが悪い伊佐子のことを案じた上で、彼女への愛情と信頼を口にする。戯曲の設定では、その頃伊佐子は五郎の家へ向かう電車の中にいる。しかし安藤聖さん演じる伊佐子は椅子に座ってその話を聴き、涙を流すのです。

語られない言葉。当人は知らない言葉。それを聴くことが出来ていたらどんなに幸せか、あるいは聴くことが出来ないでいられることがどんなに幸せか。主を失くした言葉たちは、そうやって二度と語られることなく消えていきます。それはもう、数えきれない程膨大なもので、人間らしさに溢れている。矛盾している。100%の悪人も、100%の善人もいない。皆が皆、自分に片をつけようともがく。生まれ変わりはあり、そんなものはなくて、神様は在って、いる筈がない。死んだらどこかの赤ちゃんとしてまた人生を生きると言う望みが死への絶望を和らげ、自分の人生は唯一無二のこれっきりだからこそ、精一杯生きることが出来る。

田中哲司さんはその膨大な量の言葉をもって五郎を演じ切る訳ですが、これが見事に身体を通った言葉として聴こえてくる。当時ならではの言葉遣いも多く、万葉集を朗読する場面もある。それが、しっかりその演者の解釈を通して聴こえて来ると言えばいいのか。炎のような五郎、圧倒される熱を持った言葉。過去哲司さんが出演した長塚演出作品――『ビューティー・クイーン・オブ・リナーン』にしろ『sisters』にしろ、長塚くんは哲司さんに絶対的な信頼感を置いている印象があります。本当に素晴らしい五郎でした。美緒を演じた藤谷美紀さんも、死の床で揺れる決意、五郎への思慕、自分が遺していくものについての悔いや心配を繊細に演じておられました。

前述の人間らしさ、矛盾を絶妙に表現した峯村リエさん、江口のりこさん、山本剛史さんもよかったなー。ちょっとの違いですごくイヤな人物像になってしまう繊細な役柄を、押し退きのタイミングや声色、表情でフォーカスを甘くさせる技量が素晴らしかった。バリッと判断つけられない。そしてそのどれもが本当の気持ち。瞬間瞬間で嫌悪が魅力に転じる。タイトルである“浮標”を口にする唯一の人物、京子を演じた中村ゆりさんも、若さならではの揺れを繊細に演じていました。

それから彼らとはちょっと違う面で魅力的な登場人物たち。苦労は多かったようだが常に明るく五郎と美緒に尽くす小母さん役の佐藤直子さん、自分の困窮をも笑い飛ばす裏天さん役の深貝大輔さん、ちょっと間が抜けている程に素直で明るい美緒の弟、利男役の遠山悠介さん(ネクストシアターにいる子だった!)、そしてかつて小説家で荒れていた時期もあったが、今は達観したような佇まいの赤井役、大森南朋さん。うーん皆よかったな……ぐすん。

そして役者長塚圭史はやっぱりいいなと改めて思いました。自分を科学者といい、美緒は確実に死ぬと五郎に引導を渡す医師の役。彼の言っていることは全て正しい。五郎の気持ちは解るが、自分がどこ迄彼を助けてあげられるかも解っている。長塚くんが哲司さんに今回出演のオファーをしたとき「圭史が出るなら出る」と応えられた、と言う記事を読みましたが、このある種対決でもあるシーンで役者長塚と哲司さんは向かい合いたかったのかなと思いました。

この戯曲は私戯曲でもあります。三好十郎とその妻、操の話。操の死後十郎は再婚し、この作品を書いたとのこと。再婚相手のことを考えました。十郎と操が語り合ったさまざまな言葉たちは、多分十郎とその後の妻には語られない。しかしその妻と十郎は、また新しい言葉を重ね続けていったのでしょう。そしてその言葉は、皆消えていってしまうのです。ふと思い出したのは、鴻上尚史さんが書いたテキストでした。数日前『幽体の知覚』を観た時に連想し、頭の隅にあったからかも知れません。

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別れることが悲しいのではなく、二度と語られなくなる言葉が生まれることが悲しいのじゃないかと思うことがあります。(中略)二度と語られなくなった言葉の想いは、宙ぶらりんのまま、さまよいさまよい、どこにたどり着くのだろうと思うのです。言葉が、言霊で、力を持つものなら、その二度と語られなくなった膨大な言葉達の想いは、きっとどこかに集まっているはずです。そして何かを生み出そうとしているはずなのです。

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「来世だとか死んだ後の神様だとか、そんなものを信じてゐなかつたからこそ、奴さん達は今現に生きてゐる此の世を大事に大事に、それこそ自分達に与へられた唯一無二の絶対なものとして生き抜いた。死んだらそれつきりだと思ふからこそ此の世は楽しく、悲しく、せつない位のもつたい無い場所なんだよ」

圧倒的な舞台でした。NHKでオンエアあるようですが、上演時間が長いのでカットされちゃうかな?あの熱量が伝わるオンエアであることを願います。