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2010年07月03日(土)
『センチメンタルな旅 春の旅』、キアズマ珈琲、『ザ・キャラクター』

荒木経惟『センチメンタルな旅 春の旅』@RAT HOLE GALLERY
チロちゃんの最期の日々。アラーキーのミューズ。ヨーコさんの時と同じように、棺の中の姿も、焼かれた後の骨も撮られている。ヨーコさんと同じように、チロはまっすぐカメラを見てる。日が経つにつれ、明らかに死の影が近付いてくるのが判る。毛づやが悪くなり、痩せて顔がどんどん小さくなり、あのおかっぱのような頭の模様がまるで違ったものに見えて来る。立てなくなる、アラーキーの作った寝床に寝たきりになる。それでもチロはレンズを見てる。絶対に逃れられないその迎えを受け入れ乍ら、最期の最期迄アラーキーを見詰めている。アラーキーはそんなチロを最期迄撮った。
2セクションで、小さい方のフロアではペプシ缶やスプライト缶を潰した“Pecchancola”シリーズと、昨年からの日々のスライド。こちらにはチロと、スタジオで撮られたヌードと、風景の写真が日付入りで淡々と続く。今年の2月からチロの写真が増え、3月5日辺りからは空の写真が続く。ヨーコさんが亡くなった後も、空ばかり撮っていた、と言っていた。
「チロちゃんは春日部のおばあちゃんとこから生後4ヶ月のときにヨーコ(妻)がもらった。」
3月2日、22歳でチロはヨーコさんのところへ行った。アラーキーは今も写真を撮り続けている。
モノクロの写真が続く中、一点だけカラーの写真があった。見慣れたアラーキーんちのベランダで遊ぶチロ。

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芸劇の前に、雑司が谷のキアズマ珈琲に寄っておやつ。キアズマって山下洋輔トリオ?と思ったらやはりそうだそう。手塚治虫が住んでいた並木ハウスの別館を東京R不動産が改装したところで、オープンして一年程なのにもう風景に馴染んでいる感じでした。コーヒーが好みの酸味少ない苦い系でうまかったー。
池袋方面ってこれ迄なかなか行かなかったけど、芸劇が野田さんのホームになったことで、ここにも寄ることが増えるかな。
近くに西洋釣具珈琲店 Reelsと言うお店もありこちらも気になる。何故釣具でコーヒー?

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NODA・MAP『ザ・キャラクター』@東京芸術劇場 中劇場

若干ネタバレあります。

重い。実際にあった事件を扱っている。知った上で観たがやはりキツい。『1996・待つ』でこの事件をモチーフにした1シーンがあって、こちらにも哲司さんが出ていたことを思い出した。台詞にもあったが「ひと昔前の話」だからこそ、スキャンダラスな面にばかり目を向けるのではなく、どうしてこういったことが起こったか、と言う面を冷静に見詰め、落ち着いて考え、忘れないようにしなければならない。そして、繰り返してはならない。しかし、誰もがそう思っている筈なのに、そのひと昔前の話がまた起こりうるだろうと言う予感が強くなっている。どうすればいいのだろう?

パンフレットに野田さんが『世界に通用しないものを創る』と言うタイトルでまえがきを書いている。「日本で育ち、そこで話されている言葉を、時間をかけて知っている者、つまりその土地の文化が体にしみこんでいる者にしかわからないもの」。知ろうとしなければ、手間暇かけなければ知ることが出来ないと言うのは、海外のひとに限らない。今回の舞台は知ろうと進めばその分だけヒントが見付けられる、ヒントが見付かれば感じることがまた増える。

逆に言えば、知りたいことは舞台上だけにあるのではない。言葉、文字、ひとつの漢字が持つ複数の意味。役者が発した音だけで全てを受け取れる訳ではないのだ。だからこそ観劇後に一刻も早く戯曲を読みたくなった(『新潮』7月号で発表されているが、観る迄は読まないでおこうと思っていた)。知ることが増え、知りたいと思うことで作品への理解は深まる。それだけの力がこの舞台にあるとは思うが、しかし作品の全てはここにはない。これは何なんだろう。演劇?戯曲?

劇場の環境にも困惑した。音が散るのだ。台詞が聴き取りづらい。この劇場では過去何度も観劇しているが、これだけ音の返りが悪いことに焦燥感を感じたのは初めてだ。野田さんの作品をやるのにこれは厳しい。しかも今後NODA・MAPのホームはここなのだ。来年から芸劇は改修に入るそうだが、この問題点が解消されるといいな……。しかし面白かったのは、古田さんと銀粉蝶さん(復帰されてよかった)の声はハッキリ聴き取れたこと。すごい。それはふたりの役柄にも重要な意味を持つ。いきあたりばったりで、俗の塊で、適当なことだけを言っているのに何故かひとを惹き付け、周りが勝手に動く家元と、誰も耳を貸さない時から必死に叫び続け、命を落とすことによって周囲を動かしたオバチャン。彼らの言葉が届くことはとても大事なことだった。

実際に動くにはいつも遅い、いつも間に合わない。後悔しても何も元には戻らない。ではどうすればいいのだろう。この作品に光明を見出すのは難しい。しかしオバチャンと言う存在があったこと、内ゲバと言ってもいい書道教室の中での出来事の裏にアルゴスとアポローンのやりとりがあったこと、閉鎖的な空間で孤立無援になろうとも声をあげたダプネーがいたことが救いでもあった。

声の通りを除けば、役者陣は皆熱演でした。宮沢さん既に声が嗄れているのが惜しい(『パイパー』では大丈夫だったのに!)、でも背負うものが大きいこの役にはその絞り出す声がドキュメントにすら映った。橋爪さんと哲司さん、池内さんとチョウソンハくんの、一瞬で立場が入れ替わる悲痛さには胸が詰まった。そしていちばん重いシーンを担ったとも言える、美波さん。野田さんの舞台でひとが死ぬシーンは、その苦しさを美しさに変換する演出があることも多いが(それは舞台で見せる、と言う効果を考えると納得出来る)、ダプネーが“変身”させられるシーンはリアル重視でとてもつらかった。男ふたりが細身の女性の自由を奪ってと言う状況もすごくキツかった。このシーンを美波さんは強烈に演じ切った。『エレンディラ』でも思ったけど、このひとホント強いし肝が据わってる。

前にも書いたような記憶があるけど、最近の野田さんのアンサンブルの使い方は、蜷川さんからいい刺激を受けているようにも思う。特に今回のような内容だと、無言の彼らの行動こそに謎が向かう。何故彼らはその場を選んだのか?何故彼らはそのような行動に出たのか?自分の知らないところで集団が大きな事件を引き起こした時、彼らはどこへ行き何を選択するのか?あの場の全てが虚飾ではなかった筈なのだ。教えが全て間違っていた訳でもない。彼らは今どこで何をしているだろう。黒田育世さんの振付けを得たアンサンブルは、集団でありながら個人に興味が行く訴求効果があった。

正直まだ消化しきれない。15年前の春、午前8時9分に起こったことはまだピリピリとした空気を持って思い出される。しかし忘れていっていることも多い。この作品のことを考え、戯曲を読み、当時のことを思い返し続けることで、『ザ・キャラクター』を自分の中で普遍なものにしたいと言う気持ちはある。