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2010年06月17日(木)
『AT HOME AT THE ZOO』初日

『AT HOME AT THE ZOO』@シアタートラム

初演された1959年(1958年発表、1960年NY初演)から約半世紀。エドワード・オールビーが『動物園物語』に新たな一幕を書き加えました。その『ホームライフ』と『動物園物語』を一挙上演する『アット・ホーム・アット・ザ・ズー』の日本初演です。キャストはピーター:堤真一、ピーターの妻アン:小泉今日子、ピーターが公園で出会う青年ジェリー:大森南朋。演出は千葉哲也、翻訳は徐賀世子。休憩なしの二幕通しで約1時間50分。

『動物園物語』は翻案含めいちばん回数観ている舞台で思い入れも強く、この中で描かれている問題を一生考え続けていくだろうなと思っているくらい個人的に重要な作品。しかも鳴海四郎訳が頭に染み付いている(笑)。新訳で、所謂エピソード1が付け加えられ、キャストも豪華。期待しない訳がない。同時に不安もいっぱい。しかもジェリー役に大森さん。願ったり叶ったりで嬉しい反面、“あの”長台詞がどうなるか心配でもあった訳です、失礼乍ら。

結果は、すごく面白かった。しかもラストの解釈が今迄観たものと違ったふうに感じられたのは初めてでした。『ホームライフ』が付け加えられたことによってピーターの言動に根拠が生まれ、不条理劇の代表的作品と言われる『動物園物語』の謎が少し明かされたように思われました。実際『動物園物語』は不条理劇ではないと言う意見も多く、さまざまな解釈が提示されてきましたが、今回オールビーからヒント(答えではない)を与えられたことによって、いつ迄も古びないこの作品への想像力が更に拡がった。そして謎が明かされることでまた新たな謎が生まれた。人生を通して向き合っていくことが出来る、深く強い作品だと思います。

そしてその新しい解釈を感じ取れたのは、演じたひとたちの力に因るところも非常に大きいと思います。アンの苛立ちと覚悟、ジェリーの焦燥と偶発的な衝動に向き合ったピーター。彼らは、決して植物ではなく動物であり、血の通った人間として舞台に立っていました。八割は性的なことに関する台詞かな。夫婦だからこそ気さくに?話せる身体の悩み、初対面だからこそ話してしまえる性的嗜好。言葉で発するには及び腰になりそうな事柄を、ごくごく自然に口にする登場人物たち。一幕も二幕も密室的な色合いが濃く、ふたりの会話は他者が決して聴くことがない筈のもの。観客は舞台で起こることを覗き見している感覚です。だから演者は客席を全く意識しない、視野に入れない。これが徹底されていた。これあたりまえのようだけどなかなかないもんですよ…。生々しいのにエロくない。しかし不安定な空気が常に漂っている。性的な会話をしているのに、そこに確固としてあるのは人間同士のコミュニケーションとは何か?と言うもので、相手を尊重する努力と寛容さと諦めが色濃く反映されていました。絶対理解し合えない、でも触れ合えるところは少なからずある。そこに自分を落ち着かせる。小泉さんがすごくよかった。気付けば小泉さんの出演舞台11本中8本観ているが、今回の役には共感するところが多々あったし、いちばん好きな役だな。妻、母、女と言う役割を演じる=生きるアン。

ひたすら受け身役の堤さんですが、『アット・ホーム・アット・ザ・ズー』はピーターの物語でもあります。二幕通しで出演するのは堤さんだけ。『動物園物語』で、何故ピーターはジェリーの話を聴き続けたのか?あの場を離れるチャンスは何度もあったのに。逃げることも出来たのに。その火種が『ホームライフ』で描かれています。堤さんはピーターの心境の変化、喚起された感情を抑制した演技で体現していました。夫、父、男と言う役割を無意識に演じていた=生きていたピーターは、それに自覚的にならざるを得なくなります。彼がどういった経緯で「セックスは上手いがファックではない」性行為をするようになったのか、と言う理由(多分アンは納得していないが。そして逆にこういう性格だからこそこうなんだ、と思っただろうな)もピーターの心根を表すもので、好感が持てた。ここにも相手を思いやる努力と寛容さ、そして優しさ。そしてこれをいや〜な感じにさせず、あーそりゃそうなるか、と思わせられてしまうピーター像を創りあげた堤さんすごい。アンとジェリーによって気付かされたことを抱え、ピーターはこれからの人生をどう送るのか。劇中いちばん心を寄せたのはピーターでした。

そしてジェリー役の大森さん。いやー……初めて見るタイプのジェリーだった。自分が観た中でいちばん落ち着きがない(笑)、次どう動くか読めないジェリー。あまりにも読めないのですっかりピーターの当惑にシンクロしてしまいました。そして現代っ子な感じがした、21世紀のジェリー。ここでまた『動物園物語』の強度を思い知らされることになりました。気付かせてくれた大森さんに感謝、すごくよかった。決して台詞をそのまま言っていない(と思われる)んだけど、それはジェリーの言葉を自分のものにしていると言うことで、ここ迄行くともうジェリーが言っているようにしか見えない。ひとと話したい、ひとと向き合いたい繋がりたいと言うジェリーの必死さ、切実さと、それがうまく出来ない自分への焦りと怒りが秒単位で入れ替わり顔を出す。とにかくせわしない。その痛々しさがひとを、ピーターをひきとめる。『ジェリーと犬の物語』の長台詞は、伝えたいことがあるのに言葉でそれを表現しきれずもがくジェリーの悲しみが凶暴な形で投げ出され、観ているのがつらい程でした。そして最後のあのシーンで観客に笑わせたジェリーも初めて観たよ…すごいな、あのカラッとした言い回し。自分に起こった出来事をひとごとのように捉えつつ、しかし自分の行く末をしっかり見つめている。

演出は正攻法、一幕での音楽の印象が強過ぎたようにも思います。しかし、台詞=言葉でストーリーを伝えようとする姿勢がしっかりあり、言葉でのコミュニケートに四苦八苦し、自分の思いが伝えられず困惑する人物を描くオールビー作品への敬意、誠実さが感じられました。ピーターとアンの家からピーターが出かける公園への転換が面白いアイディア。天井が高めでスコーンとしているシアタートラムの空間がよく活かされていました(美術:松井るみ)。

性的な台詞はどうにも身体から離れられない生物だからこそのもので、生殖にも強く結びついている。オールビーはそれを愛に着地させようと書き続ける。言葉と言うツールでしかコミュニケーション手段を持たない人間が、生きるための営みを人生と呼び、それを愛に結びつける。愛って何だろう?人間はどうして愛なんて言葉を発明したんだろう?オールビーは獣姦も俎上に載せる(『山羊 ―シルビアってだれ?』)。人間同士でなくてもいい、いぬでも、ものでも。そうすればきっといつかは人間とも向き合える。一方的かもしれないその思いは、完全な幸せに辿り着けるのか?帰宅したピーターはアンに何と言うだろう。その後の人生をアンとどうやって生きていくだろう。今年82歳になったオールビーは、愛について考え続けている。

以下ネタバレ+小ネタ。

・性差別ってことではなくて、おとことおんなってほんっと違ういきものだわねとしみじみ。いやこれはどうしようもないって…認めざるを得ない。ホント身につまされる話ですよ……。どっちがいいとかわるいとかじゃなくて
・『ホームライフ』の装置、壁上方に丸い穴が開けられていて、照明器具が吊るされているんだけど、この穴が角度によって月にも見えた。で、月=女性の生理、を連想
・そんでふと、生理前の彼女がピーマンと牛肉を一緒に炒める匂いが嫌だと彼氏とケンカになるエピソードが書かれている村上春樹の小説のことを思い出したんだけど、タイトルが思い出せない…なんだったっけ、すごく気になる(追記:『ねじまき鳥クロニクル』だとTwitterで教えて頂きました。有難うございます!読み直してみようしかし三巻もある…どの辺りだ……)
・えーとだからあのアンの言動もそういうものに起因するんじゃないかなーと思ってみる。これ男性からすると「え?え?なんでその話?なんで今?」とかって思うんだろうなあ…はー。こっちからすると唐突でも何でもないんですよ(笑)
・ジェリーの最期、今観るとあの、半平太と共通するものが……あー、これの上演期間中に半平太の最期もオンエアされるんだよなあきっと。うわー
・おーもりくんは随分もっさりしており、おおきないぬ感満載。そんないぬキャラがいぬの物語を語るのでもうたまりません。たすけて!
・小泉さんがアイドルと言う職業を存分に活かしたあの声!で下ネタの歌を唄うんだけどこれが絶品!もうここ大ウケでした。80年代に思春期を過ごした世代は感動すること間違いなし

あーほんとつらい芝居だ。でも大好きなんだ。