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2009年02月14日(土)
『パイパー』

NODA・MAP『パイパー』@シアターコクーン

多分コクーンで最後のNODA・MAP公演になります。このサイズ、この天井の高さ、心地よい距離感にもう会えなくなるのは寂しいな。でも次からの劇場でも、野田さんはいい景色を見せてくれることでしょう。

『ロープ』『オイル』『THE BEE』を収録した戯曲集に『21世紀を憂える戯曲集』とタイトルを付けた野田さんが、こんなラストを書くとはちょっと意外でもありました。そしていつもより散漫に思えた。情報量が多く、それを編集しきれていないような印象も受けました。野田さんの中で「どちらも絵空ごとである絶望と希望」がせめぎあっているのが滲み出てしまったかな、と言う気もした。「自滅していく幸せ」が根底にあってのことだと思います。それは「知っている者」の特権でもある。「知らない者」は生きていくと言う絵空ごとの希望を信じることが出来るのです。

そうなるともう、この作品を肯定せざるを得ない。

この舞台を観る前に、現在朝日新聞夕刊で連載されている野田さんと橋爪功さんの往復書簡を読んでしまっていたことも、肯定の要因になるかも知れません。珍しく野田さんが自分の家族の話をしている。自分の父親の面影が、橋爪さんの役=ワタナベにあると言うような話でした。世界の終わりのような光景を見てしまった者は、見ていない時の自分には戻れない。傷は長い時間を生きるうちに多少癒えても、消えることは絶対にない。それは生き乍ら死んでいるようなものだ。

今後「知っている、見ている」人間は増えていく。「知らない、見ていない」人間が増えていくかは判らない。いや、実は増えないと思っている。それでも「知らない、見ていない」人間が増えていくことをどこかで祈り乍ら、「使い尽くして使い尽くして生き尽くすしかない」。

宮沢りえさんが見事でした。声が嗄れていましたが、『ロープ』の時とは違い、言葉が“伝わる”。こうなるとひょっとして喉を潰すのはNODA・MAPでの仕様なのか、意図的なのか…?とすら思ってしまったのですが(苦笑)今回は声色を低音に設定することで、「知っている」人間の絶望と、それでも生きている図太さが迫力を持って表現されていました(しかし『ロープ』では、あの天使のような声で虐殺の実況中継をすることにキモがあったので、今回の低音発声では別の意味で伝わなかっただろうな…うーん難しいところです)。松たか子さんは流石の安定感。ふたりが姉妹と母子をひとつの流れで演じ分けるシーンは素晴らしかった。ちょっとした声色、ちょっとした仕草の違いで記憶と現在を滑らかに繋げる。

そのふたりの姉妹を育ててきたワタナベ=橋爪さんの、ヤケッパチな言動が知っているからこその絶望から来るものに見える表現力の深度には恐れ入った。このひとは時々怪物のような姿を見せることがあって、とても恐ろしい役者さん。すごいのは判っているけれど、今回は改めて怖いひとだなあと思った。

パイパー担当コンドルズの面々は持ち前の動きを封じられた印象でしたが、アンサンブル(よかった)のディレクションは近藤さんが手掛けていましたし、貢献度は高いと思います。パイパー単体よりも、他の役者と絡んでる時の動きがより面白く見えました。動きに不安のあった(笑)哲司さんとパイパーたちの絡みにはちょっとドキドキ(ヒヤヒヤ?)した。いやでも哲司さん意外に(意外言うな)野田演出に馴染みますね。ああそれで思ったんですが、今回NODA・MAPの割に若干運動量が少なく感じたんですね。特に野田さん本人。役者としての野田さんは歳をとっていっている訳で、当然身体能力も落ちてきます。しかしそれでも、野田演出の色と言うのは変わらない印象でした。これは今後何かのヒントになりそうな気がします。

大倉くんも北村くんも小松さんもよかった。つうか田中さんも含めてこのメンツはNODA・MAP番外で観てみたいですね。少人数で。大倉くんは『赤鬼』に出たし、北村くんは今度『THE DIVER』に出るので、田中さんと小松さんを番外で観たいー!

終盤フォボスと母親が、目の前で展開する「リワインドする火星」を交互にセンテンスで語って行くシーンは圧巻でした。その中に「芸術品は生きるために必要とされない。だから略奪されない」と言うニュアンスの一節があった。野田さんの宣言のようにも感じました。

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■よだん
2/13以降この作品は、あることを「知っている」ひとたちが観ることになった。「知っている」ことが、何らかの希望になることもあるのかなとちょっと思い、それは案外わるくないなと思った。偶然かは判らない。野田さんがどういう過程でこの話を書いたかも知らない。それでも時々、こんなふうに現実と繋がる何かが起こる演劇は、現在を映す鏡として面白いものだなあと思う