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2005年09月03日(土)
SISカンパニープロデュース『エドモンド』

SISカンパニープロデュース『エドモンド』@青山円形劇場

えーネタバレしてます。未見の方はご注意を。

エドモンドの価値観は破壊され、その後ある種の平安とニュートラルさを受け入れることが出来た、ともとれます、が。

それでもグレナは殺されてしまった訳で、グレナはもう戻ってはこない。彼女を殺したことをエドモンドがいくら後悔しても、グレナの人生はそこでぷっつり断たれてしまった。彼女にとっては、自分の死は理不尽以外のなにものでもない。

エドモンドは許されるべきなのか。それだけの代償を払ったのか?いや、そもそもひとの死に対して代償なんてものは何の意味もない。どうやったってそのひとが生き返って、人生をやり直すことは出来ないのだから。

自分をレイプした黒人囚にキスをして、眠りに入るエドモンド。ここが象徴的で、彼の未来は希望の光がぼんやりあるような雰囲気で、しかしそこにあるのは監房の暗闇だ。それでもエドモンドは、安息を得たような表情をしている。許すことに、他者の気持ちが介入する余地などないともとれる。尤も、エドモンドは許してもらおうとか許してくれとも思っていない気がする。

書かれた時代背景があるのかも知れないし(1982年初演)、アメリカと言う国で生活することによって得る価値観、宗教観がかなり大きな位置を占めていると思われます。それを日本人が演じている。そして日本人が観ている。どこに共感を持っていくか。と言う迷いがありそうで、意外となかった。ヘヴィーな内容とは裏腹に、とてもすんなり頭に入るストーリーでした。デヴィッド・マメットの作品は『オレアナ』とこれしか観たことがないのですが(映画仕事の方が沢山観ているなあ。『アンタッチャブル』も『ハンニバル』もこのひとだったんだねー)すごく面白いですね…ある意味健康的でもあるなあと思う。偏見と言うものの見方。それが“偏見”になる過程。言っている本人はそれが偏見だと言うことにすら気付いてないこと。きちんとその提示がある。

序盤は八嶋さんの童顔が気になって「お子ちゃまっぽいな…いつでも『ここではないどこかへ行けば俺はもっといいものになれる筈!』て思ってそう」なんて思って観ていました。この見た目、エドモンドのひととしての成熟を現していたんだろうか。それとも偶然だろうか。これがキャスティングをしたひとの狙いだったんだろうか。だとしたらまんまとハメられたなあ。

で、八嶋さんの顔がどんどん変わっていく訳です。目がギラギラしてきて。すーごーいー。

グレナのアパートのシーンは、とても幼いふたりに見えた。八嶋さんと小泉さんの体型もある。それでいて人生に迷いを覚え始めている年齢特有の“疲れ”も見える。少年と少女みたいなのに、不思議な色気がある。生々しくていいシーンだったなあ…。

シーン転換が多く、会話の殆どがエドモンド→他者でようやく成り立つ構造。他者→エドモンドの場合は、エドモンドがエドモンドでなくてもいいようになっている。ここで彼が、この場所にいかに必要とされていないかが浮き彫りになる。エドモンドは他者を求めているが、他者はそれがエドモンドでなくてもいい訳で。拒絶とも違う疎外方法。その他者を演じる役者陣の冷たさがとても痛く、面白く観られた。皆巧い!酒井さんの教戒師が印象的だったな。

まっさらの円形舞台で、ステージ床の切り穴(蓋付)からひとの出入りがあったり小道具を出したり。テンポがいいです。床の隙間からスモークと照明を出した画ヅラがアメリカ!なアイディアですげえ!と思った。地下鉄のダクトから湯気と光が出る感じ。この画、すごく良かったなあ。選曲も良かった。

それにしても長塚くんの演出にはもはや手練の風格さえ漂ってますな…。

Bブロックで観ました。エドモンドの妻の表情が全く見られなかったのが残念!しかしラストシーンはいい視点で見ることが出来ました。まあ、これも円形の醍醐味です。