前潟都窪の日記

2005年03月27日(日) 秦   河 勝 連載39

 591 年(崇峻天皇四年)天皇の詔によって任那再興軍の派遣が決まり、紀臣男麻呂・巨勢臣猿・大伴連噛・葛城臣烏奈良らを大将軍としてその他の諸氏からも兵を集め、二万余の軍勢が筑紫へ出兵した。ここに名を連ねた各氏族はその殆どが物部守屋との戦で馬子を支援しているので、遠征軍は馬子の呼びかけに呼応したものであり、詔も馬子に勧められて下されたものであった。秦河勝も九州の秦一族に号令して任那再興軍に参加させていた。
崇峻天皇は統帥権さえも大臣蘇我馬子に握られている傀儡政権であった。

592 年(崇峻天皇五年)の冬、秦河勝は飛鳥の橘宮へ厩戸皇子を表敬訪問
した後葛城山の山奥で捕獲した猪を天皇に献上した。
 献上された猪を見て天皇は
「元気のよい猪だね、どこで捕れたのか」と河勝に聞かれた。
「葛城山の山中でございます」
「葛城は蘇我大臣馬子の本貫の地ではないか」
「御意」
「今宵の夕餉には久しぶりに膳部に命じて猪肉の串焼きをつくらせよう」
「光栄至極でございます」
「それにしても、いつの日かこの猪の首を切るように憎い人の首を切りたいものだ」と漏らされた。
「おそれながら、お心のうちは、お漏らしにならぬが賢明かと存じ上げ奉ります。それがし、只今のお言葉、聞かなかったことに致します」河勝はいまただちに厄介な事件に巻き込まれるのは御免だという思いをこめて言った。心の中では天皇は蘇我馬子を成敗したいと考えて、私にそれとなく謎をかけて唆せているなと受け止めていた。
「ところで、筑紫の国へ沢山の軍勢が出征しているので、宮城の護衛の兵士の数が少なくおぼつかない。身辺警護の兵を増やしたいが精鋭の部隊を派遣しては貰えぬか」と天皇もさりげなく河勝に言った。
「東漢直駒という戦上手の帰化人がおりますがその手のものでは如何でしょう」と秦河勝は天皇の腹のうちをさぐるつもりで答えた。
「どのような素性の者か」
「お上も御記憶にあろうかと思いますが、物部守屋の討伐戦の時、新しい武具で装備し、先鋒隊を務めた騎馬軍団の首領が東漢直駒です。武力だけが取り柄の人間ですが、お上に忠義を尽くしたいと日頃申しております」と河勝が答えた。


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