| 2005年03月26日(土) |
秦 河 勝 連載38 |
物部一族が討伐されて間もなく、8月2日炊屋姫と群臣達は泊瀬部皇子に勧めて天皇即位の礼を行った。同じ月に倉梯に柴垣宮を造営したが現在の桜井市から多武峰街道を寺川沿いに遡った山峡にある倉梯の集落は、視界を妨げられる山ふところに位置しており、山々に囲まれたその場所からは、大和朝廷の心の故郷である三輪山の姿は全く見ることが出来ない。まさに幽閉の場所であった。 崇峻天皇は即位した翌年春三月に大伴糠手連の女小手子を立てて妃とした。 即位したものの、政治の実権から切り離され、馬子の采配によって政治が進行し、異母姉の炊屋姫からは皇太后の立場を楯に何かにつけて、口出しされるので、政治を傍観するしかなく、馬子と炊屋姫に対する反感が鬱積していった。 妃に立てた小手子の父の大伴糠手は連姓の氏族であり、本来皇后を立てられる氏ではない。今では大連の地位からも外され、蘇我氏の手足となることに甘んじている二流の氏族であり、大臣蘇我馬子に対抗していくだけの実力もなく頼りにならなかった。小手子は天皇との間に一皇子、一皇女をもうけたが、次第に天皇の寵愛が薄れて馬子の娘である妃の蘇我嬪河上娘に移っていくのを恨んでいた。それに蘇我嬪河上娘のところへは舶来の香料・衣等の貢ぎ物が頻繁に届けられるのに小手子のところへはそれが無かった。足しげく貢ぎ物を運んでくるのは東駒直という帰化人でいろいろ半島の風俗・習慣等の話を面白おかしくしているらしいと侍女達から漏れ聞くのも癪の種であった。小手子は親の実力の相違がこのように、貢ぎ物にまで影響を及ぼし、天皇の愛情にまでおよぶものかと慨嘆してだけはいられなかった。親に力がなければ皇后という立場を利用して、機会を見すまして実力者である大臣蘇我馬子に命じ、天皇をいさめて貰おうと考えていた。
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