| 2005年03月24日(木) |
秦 河 勝 連載36 |
泊瀬部皇子を筆頭とする諸皇子の他に、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸豪族が蘇我馬子側についた。大和、河内の主要な豪族うち揃っての軍団編成であった。とりわけ先鋒隊をつとめた大和檜前の東漢氏の軍勢は、優秀な武器・武具で装備された精鋭部隊であった。 これらの軍勢は蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏から なる主力軍と大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる第二群とに分かれて進軍した。
主力軍は、飛鳥で勢揃いし奈良盆地南部を西進してから、逢坂越えをして国分から船橋へ出て物部氏の軍に攻めかかった。第二軍は大和川北辺を通る竜田道を越えて信貴山西麓の志紀の地に出て、一気に渋川の物部氏の本拠を横あいから急襲した。 物部守屋は稲を積んで砦を作り、子弟と奴からなる軍を率いて防戦したが、不意をつかれたために、渋川の本拠を放棄して、北方の衣摺まで後退して戦った。このあたりは泥深い沼のある地帯で馬子軍も攻めあぐんだ。大連の物部守屋は、大きな榎の木に登って馬子軍を俯瞰し、泥沼で足を取られ動きの鈍い馬子軍に雨の如く矢を射かけたし、よく訓練されて戦上手の物部氏の兵達が頑強に戦ったので、馬子軍は三度も退却しなければならなかった。 厩戸皇子は瓠形の結髪をして馬子軍の後方に従っていたが、味方が三度も退却するのをみて何となく不安になった。厩戸皇子の側には秦河勝と跡見首赤寿(とみのおびといちい)が従い護衛していた。 「大勢がよくない。何か手をうたないとこの戦は負けるかもしれない」と厩戸皇子が言われた。 「仰る通り形勢は、我が軍に不利のようでございます」と跡見首赤寿が同意した。 「この戦に負けると仏の教えは広まらない。仏教を守護する四天王に願をかけよう。誰か、仏像を彫る木を捜してきて欲しい」 河勝が近くの山へ入ると直ぐ目の前に身丈程の白膠木(ぬりで)が生えていたのでこれを切り取ってきて捧げた。
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