前潟都窪の日記

2005年03月16日(水) 秦   河 勝 連載29

敏達天皇には皇子が何人かおり広姫を母とする押坂彦人大兄皇子(おさかひこひとおひねのみこ)が母の身分も高く、最年長でもあったので次期天皇としては有力な候補であった。しかし、古代の天皇家では皇位は兄弟相続で継承されることが多く、有力な弟がある場合には弟に皇位が譲られるのが普通であった。

 敏達天皇には異母兄弟が多く、堅塩姫を母とする橘豊日皇子と小姉君を母
に持つ穴穂部皇子が皇位を争うことになった。堅塩姫、小姉君はともに蘇我稲目の娘であり欽明天皇の后であると同時に蘇我馬子の姉と妹であった。橘豊日皇子の同母妹にあたる炊屋姫は故敏達天皇の后であった。このような複雑に血筋の絡み合った人脈の中では、皇位の継承は天皇家内部の問題に止まることが出来ず、崇仏・排仏論争とも関係して豪族層も巻き込んだ政治問題となっていた。

 橘豊日皇子は母の身分も高く天皇の兄弟の中では最年長であったし予てよ
り仏教に関心を寄せていたので敏達天皇の后炊屋姫と大臣蘇我馬子との支持を得て対抗馬である穴穂部皇子を蹴落とし磐余の池辺雙槻宮で即位することができた。用命天皇である。

 穴穂部皇子は皇位への希望を絶たれたあと次の機会を待って排仏派の有力者である大連物部守屋に接近し皇位争奪の秘策を練っていた。

 当時天皇が崩御するとその死を悼んで、葬送の時まで遺体を安置する殯宮(もがりのみや)が営まれる習わしであり、敏達天皇の殯宮は広瀬(奈良県北葛城郡)に造営された。后の炊屋姫は殯宮に侍して悲嘆にくれていた。


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