| 2005年03月15日(火) |
秦 河 勝 連載28 |
崇仏派の雄、大臣蘇我馬子は584 年(敏達天皇12年)に鹿深臣が百済からもち帰った弥勒石像一体と、佐伯連が百済から将来した仏像一体を二つとも貰い受け、石川の自宅に仏殿を造って安置し法会を営んだ。これと前後して司馬達等の娘嶋(善信尼、出家当時11才であったという)・漢人夜菩の娘豊女(禅蔵尼)・錦織壺の娘石女(恵善尼)の三人を出家させ彼女らに法衣を供し仏像を祭らせた。
このようにして馬子は仏教の受容を積極的に勧めた。 ところが翌年(585 年)再び疫病が大流行した。排仏派の物部守屋と中臣勝海は疫病が発生したのは馬子が異国の神である仏像を拝んでいるせいであると主張し敏達天皇に仏法の禁止を奏請した。敏達天皇は疫病の蔓延を阻止するには仏法を破断するしかないと判断し、大連物部守屋に仏法の処断を許可した。
守屋は中臣連磐余等を率いて、大野丘の北の仏塔を切り倒し蘇我馬子が建てた石川の仏殿を焼き、再び仏像を難波の堀へ棄てた。善信尼ら三人の尼は法衣を奪われ、海石榴市に監禁され尻や肩を笞うたれた。このようにして破仏は実行されたが疫病は終焉しなかった。そればかりでなく,仏像を焼き、尼を罰したことが仏の祟りとして現れ、疫病をますます流行らせる原因となったというう風評が流布した。また、敏達天皇が破仏を許可したことも非難の対象となった。そのうえ敏達天皇と蘇我馬子とが相次いで疱瘡に冒され床についた。 馬子は自分の病は重く、仏の加護を受けなければ治らないと思うので仏法に帰依することを許可願いたいと天皇に懇願した。天皇は譲歩してこれを認めたが馬子一人だけに許すので他の人には認めないという条件がついていた。三人の尼も馬子に返された。 馬子の病気はまもなく快癒したが天皇はやがて崩御した。馬子の病気回復は仏の恵みであり、天皇の崩御は排仏の祟りであると当時の人々に思われた。こうして他国神の威力が国神を圧倒することが証明された。 大臣の蘇我馬子が卜占せしめたところ、父稲目が祭った他国神(仏)の祟りであることが明らかとなった。その神は12年前に難波の堀に流されて以来、ずっと祭られておらず、いま自己の祭祀を要求したのである。仏の要求をいれて祭るなら国内の災禍は消えるであろうと。
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