前潟都窪の日記

2005年03月08日(火) 秦   河 勝 連載21

 570 年(欽明天皇31年)三月に蘇我稲目が死に、稲目の後を継いで馬子が大臣に就任した。稲目の死とあい前後して尾輿も死んだ。後を継いで大連となった物部守屋は予てから崇仏派の祭る仏像を破棄してやろうと機会を窺っていたが、稲目の死亡がチャンスとばかり蘇我氏の向原の家を襲って仏殿を焼き、聖明王から献上されて祭られていた仏像を持ち帰ると自宅近くの難波の堀江に流した。

人間が被る災禍や疫病の穢れは、禊や祓によって清められるという日本古来の神道の考え方による行動であった。

 蘇我稲目の逝去に先立つ570 年正月、八才になった秦河勝は父に連れられ蘇我稲目の向原の自宅を年賀に訪れ、仏像を拝まして貰った。予てより仏教に関心を示していた父秦国勝が、年賀にことよせて稲目の崇拝する仏像を拝観させて貰おうと、秦大津父を通じて稲目に渡りをつけておいたのである。河勝にとっては父と一緒の初の大和路への旅であった。秦氏の一族は大和にも住んでおり、父が出仕するときに利用する館も大和に用意されていた。

河勝が初めて仏像を拝観したときの気持ちは荘厳なものであり、人間の顔をした外国の神様はやさしく微笑んでいた。

「ありがたい仏様だ」と国勝は魂を奪われ、恍惚境に彷徨った。
「私も仏像をお祭りできるようになりたい」と河勝は祈るのであった。
「河勝よ仏像を将来お迎えすることができたらお寺を建てよう」と国勝が言った。
「是非そうしましょう」河勝は将来仏像を我が手で祭ることを夢みながら頷いた。


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