| 2005年03月09日(水) |
秦 河 勝 連載22 |
蘇我稲目の死去を狙って決行された物部守屋らの排仏運動もひとたび火のついた崇仏派の求法の情熱の火を消すことはできなかった。帰化人達は崇仏の念厚く蘇我氏を支援した。特に飛鳥に本拠を置く鞍作氏(司馬氏)は積極的に蘇我氏を支援した。 この年病床にあった欽明天皇は、太子の淳中倉太珠敷皇子(ぬなくらふとたましきのみこ)を枕頭に呼び、任那の復興を託して、翌年四月、金刺宮で崩去した。
淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となった。欽明天皇と宣化天皇の皇女石姫との間に生まれた第二皇子であった。 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は18才の時敏達天皇の皇后となった。幼少の時は額田部皇女と呼ばれ、才気煥発の人でその質問には侍女達もしばしばたじたじとなることが多かった。
「どうして女は天皇になれないのじゃ」 「昔々からのしきたりでございます」 「何故そのようなしきたりができたのじゃ」 「皇祖の神武天皇以来,天皇は皇子が継承することになっているのでございます」 「私は天皇になりたい」 「皇女様が今度お生まれになるときは皇子としてお生まれになることですね。天皇にもなれますよ」と乳母達は自己顕示欲の強い姫を宥めるのが精一杯であった。 長じてからは容姿端麗で、立ち居振る舞いにはメリハリがきいており、数多い同年代の皇子皇女達の中では一際目立つ存在であつた。母は蘇我大臣稲目の娘堅塩媛で欽明天皇との間に七男六女をもうけた子福者であった。他にも異母兄弟姉妹が大勢いたが、小姉君を母とする茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の兄弟達とはうまがあわなかった。穴穂部間人皇女の美貌は許しがたかったが、控えめな性格は自分の性格と裏腹であるため絶好のいじめの対象であった。
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