| 2005年03月05日(土) |
秦 河 勝 連載18 |
他方、臣姓の氏族は本貫の地名を氏の名とする在地性の強い集団である。大和朝廷が統一王朝を確立するまではこれに対抗するだけの力を持っていた。彼らは帰順した服属集団であり葛城、平群、巨勢、和珥、蘇我等の氏族である。
中でも蘇我氏は古くから帰化人の東漢氏や西文氏らとの接触を通じて、大陸の事情にも明るく大陸文化の優越性を認めていたから仏教の受容についても積極的な姿勢を示していた。そこへ仏教が仏像という具体的な形をもったものとして外国から入ってきたのだからその受容をめぐる争いは崇仏派と排仏派の対立を産み出し、皇位継承問題と絡んで壮絶を究めるものとなった。 一般民衆にとっては神であろうが仏であろうが祟りさえなければよかった。お加護があればそちらのほうがよかった。
しかし、権力の中枢にあるものにとっては崇仏派に属するか、排仏派に属するかは将来の生き残りをかけた死活の問題であった。 538 年に百済の聖明王から欽明天皇に仏像と教典が献上された。聖明王は使者を遣わして、次のように言上した。
「この法は諸法の中で最も優れております。見かけは解りにくく、入り難くて、かの賢人周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、この 仏像を拝みさえすれば無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を生じることができるのです。例えば、人が随意宝珠(物事が思うがままになる宝珠)を抱いて、何でも思い通りになるようにするようなものです。この法は遠く天竺から三韓に至るまで、教えに従う人々に尊敬されています。それ故百済の王である私は侍臣を遣わして、御地の朝廷にこの有り難い仏像と経論を伝え国中に流布させて頂き、お釈迦さまが願われたことを実現したいと思うのでございます」 これを聞き天皇は欣喜雀躍して百済の使者に言った。
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