前潟都窪の日記

2005年01月06日(木) 国税局の査察��

「わかりました。資料を提示して下さい。私の知っている限りの事実については喋りましょう」と勇は覚悟を決めて言った。

 勇が驚いたことに提示される資料は全て営業費を捻出するために社長から指示されて比較的利益率の良い工事の原価に算入した架空の外注工事代ばかりであった。国家権力が権限を奮って組織的に動けば、民間の中小企業が小細工を弄してもとても太刀打出来るものではないと思った。

 取り調べが終わり解放されたのは夜の12時を回っていた。社長と話ができたのはその時であった。
「社長、朝、一旦出社されたのにすぐ自宅へ帰られましたね、何か情報が入っていたのですか」と勇は朝からの疑問をやっと投げかけることができた。
「ワイフから電話があって、自宅の回りに見知らぬ男達が四、五人いて様子を窺っているというので、労災事故の補償問題にかこつけて暴力団でもきたのかと思って帰ったんだよ。そうするといきなり、国税の奴達が踏み込んできて、ここへ連れてこられて今までかかったということなんだ」
「そうだったんですか。私は少し考え過ぎたようです」と勇は疑問に思っていたことを口にした。
「裁判になるかもしれないから、税理士とよく相談しよう」
「そうですね。修正申告で済むように運動する必要があるでしょう」

 勇は取り調べの際にいろいろと悩んだ心の葛藤を日記に次ぎのように書きつけた。 
某月某日
 我が最愛の家族に告ぐ。これは貴方がたの夫であり、父である都窪 勇が見知らぬ世界ヘ旅立つにあたっての訣別の手紙と思って読んで貰いたい。
 父は人生の信条として、1)威張らない。2)嘘はつかない。3)人を侮らない。4)人を謗らない。5)人を貶めない。という五つの行動規範を心に抱いて、55年の人生を生きてきました。そして日常生活もそのように行おうと努力してきました。悲しいかな凡人の弱さでこれが全うできなくて思い悩んだことが幾度もありました。

 人はそれぞれに価値観をもって生きていることでしょうから、どの価値観が正しいのかは神様しか判定できないことだと思います。

 父は価値観の根底に二つのものを堅持してきました。その一つは、性善説です。二つめは価値相対主義です。

 先ず性善説ですが、これは遠く孔子、孟子の時代から現代にいたるまでどちらが正しいのか結論の出ていない哲学上の永遠のテーマです。しかし、どちらが正しいか正しくないかは別問題として、人生を生きていく限り、真剣に人生の生き方を考えた人なら必ずぶつかった問題であろうと思います。父も若い頃この問題について友人達と議論しました。結論は出ません。結局は人それぞれの選択の問題に帰着するのです。父はこのテーマについて性善説を信奉することにしました。おそらく大学生の頃だと思います。それ以来性善説を信奉しています。

 その二は価値相対主義です。これはドイツの法哲学者ラードブルフ先生が唱えられた説です。そもそもこの問題は人生もしくは世の中に究極価値というものがあるとすれば、それは絶対的なものだろうか、それとも相対的なものだろうかという素朴な疑問から発したものだと思いますが、よくよく考えてみれば、世の中によくある両者を足して二で割るという選択をなしにするとこのどちらかしかないのであります。

 父がこのラードブルフの法哲学の中でもこの価値相対主義という思想に触れて感激したのは大学三年生のとき加藤新平教授の法哲学の講義を聞いてからです。

 以上父の価値判断の基本原則について述べましたが、大学を卒業して以来今日に至るまで、父の挙措・言動は、すべて以上述べた原則にもとずいて行われていることが理解できるでしょう。世俗の俗物どもにいわせれば、やれ融通がきかないとか頭が固いとか営業センスがないとか言って批判します。しかし、それは人それぞれの見方ですから、謗られようと侮られようと、父は意にも介せず生きてきました。世俗の立身出世は出来ませんでしたが、心になんのやましいことなく生きてきました。人に後ろ指を指されるよう反社会的な行為も悪事もしたことなく、ひたすら愚直に生きてきました。

 このことが父の誇れる唯一のことです。よくきれいな空気だけ吸って生きられるものではないとか、世間を知らなすぎるとかいかにも世間の辛酸をなめつくしたような言い方をする人が身近にいますが、人生に対する或いは世間に対する態度が不遜に過ぎ、人格そのものがうす汚いと言わざるをえません。規範意識が乏しく倫理感の欠如した人問程、哀れな存在はないといえましょう。私腹を肥やす為に脱税行為を頻繁に行い、発覚すると激しい安値受注競争の中で仕事を確保していくために行った必要悪であり、それがあたかも正当な行為で、たまたまバレたのは運が悪かったのだくらいにしか捉えられない破廉恥な人が身近にいることはまことに悲しいことです。

「国はなにもしてくれない。困った時に国が助けてくれたことがあるか、自分で稼ぎ出した金を自分で使うのだから、自然犯とちがってなんら恥じることはない。誰でもどの会社でもやっていることではないか」とうそぶいて懲りるところが全然ないのは考えものです。

 悪法でも国法であると言って敢然として毒杯をあおったソクラテスの故事もあるように、国民である限り、国法には従わなければならないのは明白なことです。これはすぐれてその人が堅持する価値観の問題であり、規範意識の問題に帰するでしょう。規範意識が欠如した社会はアナーキー以外のなにものでもないでしょう。

 権力の頂点にいるものに規範意識がなく自ら、禁則を破っておいて、下の者にだけルールを守れと説いてもそれは通用しないというのが、社会の経験則でしょう。

 あなた方がどのような価値観を持って生きていこうと自由ですが、反社会的な自分の良心に恥じる不道徳な行為だけは絶対にしないようお願いしたい。

 今度の脱税事件はこれから裁判になるでしよう。この日記のこの文章は、父に万一のことがあった場合に、家族の者に読んで貰いたいと考えて認めた父からの訣別の手紙であると思って下さい。我が心中をよく読み取って欲しい。

 この事件があった時、勇は5年後には定年退職事由に該当する還暦に達するので、義父である会長や義弟である2代目社長から慰留されても断固会社を辞めようと密かに決意した。


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