「あなた、岡山のお母様からお電話ですよ」と妻の田鶴子に揺り起こされて、受話器を握ると狼狽した母の声が飛び込んできた。 「勇さん、さっき、11時頃お父さんの会社の福山さんから電話があってお父さんが危篤らしいのよ。救急車で病院へ運ばれたらしいんだけど意識がないというのよ」 心臓の鼓動が高まるのがよく判る。 「何ですって、突然に」 「心臓発作を起こしたらしいのよ。もしかしたら駄目かもしれないから、その覚悟で一刻も早く来て頂戴」 「今、何時ですか」 「11時30分よ、幸子と京子が一緒に行ってくれるというので、私は間もなく家を出ますから。病院の名前はお父さんのマンションの近くの藤山病院よ。留守番には晴代が来てくれる筈です」 「病院の電話番号は」 「判らないのよ。タクシーが来たらしいから、私はこれからでかけますからね」母はそれだけ言うと電話を切ってしまった。 「親父が、大阪のマンションで倒れて危篤らしい。電車の時刻表を持ってきてくれ」 「どうなさったの。突然危篤だなんて、嘘でしょう」と言って時刻表を取りに書斎へ走った。 「はい。でも心臓発作だなんて、お父様は心臓が弱かったのかしら」 「とにかく、早く行かなければ。11時30分だと新幹線と飛行機は駄目だろう。横浜駅発の夜行列車があるかどうか調べてくれ。僕は藤山病院へ電話してみるから」夜行列車がなければ車を運転して東名高速道路を走るしかないかもしれないと思いながら、父の会社へ電話した。 「もしもし、都窪作次の長男の都窪 勇と申します。岡山の母から父が危篤だという知らせを受けましたが、父の容態はどうなんでしょうか。まだ生きているんでしょうね」 「はい、大変なことになりまして。工場長は今救急車で運ばれて手当てを受けておられますが、意識不明のようです。病院の方へ一刻も早くお越し下さい」
相手の口調に躊躇いが感じられるので不安が嵩じた。不吉な予感がする。「死んではいないでしょうね」 「こちらでは判りませんから、病院の方へお尋ね下さい」 「電話番号は?」 病院の電話番号を回すが、ダイヤルの回転の鈍さがもどかしい。 「もしもし、そちらへ救急車で運ばれて手当てを受けている都窪作次の容態はどうでしょうか。家族の者ですが」 「なくなりました」 事務的な答えが返ってきた。非情な答えであった。非情な答えには事務的な言い方がもっとも相応しいのかもしれない。或いはと期待しながらかけた電話であったが、66年間の人生の幕切れが「なくなりました」の一言で片づけられるのは如何にも悔しい。 「本当に死んだんですか。時間は。死因は」 「一寸待って下さい。会社の人に代わりますから」 「もしもし、会社の方ですか。都窪作次の家族の者ですが、容態はどうなんでしょう」嘘でもいいから生きていると言って貰いたいと思いながら、もう一度同じ尋ね方をしてみる。 「大変、お気の毒ですが、都窪工場長は危篤状態です」 「まだ、生きているんでしょうね」 「はあ」受話器の向こうの声は当惑したような口調で言い澱んでいる。そこに労りの気持ちを感じとることができた。 「さっき、電話に出られた方は病院の方だと思いますが、亡くなりましたと言われました。覚悟は出来ています本当のことを言って下さい」 相手は暫く口籠もっていたが、意を決したような口調で言った。 「まことにお気の毒ですが、10時45分に亡くなられました。急性心不全でした。心からお悔やみ申し上げます」 「やはり駄目でしたか。父が生前お世話になりました。私もすぐそちらへ参ります」
岡山の母から電話を受けたときには、父は既に亡くなっていたのである。母と妹の幸子と京子は父が既に絶命していることも知らずに,いらいらしながらタクシーで一路大阪へ急いでいるのだが、携帯電話の出現する前の時代であったから連絡してやる術もない。 「そんな馬鹿な。亡くなったなんて嘘でしょう」傍らで時刻表を調べながら電話のやりとりを聞いていた田鶴子がワッと泣きだした。田鶴子の泣き声を聞いて目頭が熱くなったが、感傷に浸っていられない不安が一つだけ頭にこびりついて離れない。マンションで独り暮らしをしていた父の死に様はどうだったのだろうか。変死でなければいいが、岡山の母に父危篤の第一報を入れてくれたのが、未亡人で父の秘書をしている福山美智子であるというのが、気にかかるところである。しかも夜中だ。
父に限って、まさか、ぶざまな死に方をした筈がないと信じていながら、もしやという心配が胸のうちに急速に拡がっていくのを禁ずることができない。
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