前潟都窪の日記

2004年12月26日(日) 工事会社��

「そのお話はもう耳にたこが出来る程聞きました」
「何を言うか。失礼ではないか。会社で一番偉い人が怒っておられるのに耳にたこができたという言い方はないだろう。耳にたこができても聞いて貰わなければならないのだ。社長に何回も言わせるのは君達が文句を言われるようなことを何回も繰り返すからだろう」

 社長が怒っているとき、口を挟むと、火に油を注いだと同じような結果になる。だから苦々しく思っても、誰も口を差し挟むことがない。感情の嵐が納まり台風が通りすぎるのを待つだけである。
 勇はいつも思うのだが、社長こそ自分勝手である。「社長中心」ということをしきりに言うが、これは社会的存在としての会社の代表という意味で使われるのであれば正しい。しかし、今岡研一の場合には、今岡研一個人のほしいままの感情の動きまで含めて「社長中心」という。まさしく「自己中心」的なのは今岡研一自身ではないか。

 また我慢ならないのは、「社長」「社長」と自称することであり、自己の行為に敬語を使うことである。
「社長が出社されたときには、何を置いても先ず、社長に挨拶をして貰いたい」
 勇は義父でもあり、社長でもある今岡研一がこんな言い方をするのを聞く度に気持ちが白けてしまうのである。

 勇が今岡研一の経営する建設会社へ転職してきたのは、5年前である。彼は以前、旭硝子のサラリーマンであったが、工場内のグラウンドでサッカーの練習をしている時にボールを蹴り損なって、転倒し足首を複雑骨折してしまい入院療養生活をしたことがある。この時心配した義父、つまり妻の父が病院へ見舞いにきて、勇を発展期にあった自分の会社へスカウトしたのである。勇には病床にある時に転職を勧誘されたという意識がある。この意識は困っている時に救ってくれたという感謝の意識であるとともに、反面では人の弱みに付け込んで勇に対する優位性を確保しようとしたという恨みの意識でもある。

 勇は義父をある点では尊敬しているがある点では軽蔑している。尊敬している点は意志の強さ、行動力、思いやりの深さ等のであるが、どうしてもついて行けないところがある。それは人間の弱みにつけこむところとか誰もが持っている、他人にはあまり触れて貰いたくない陰の部分を巧みに察知して、これを逆手にとってしまうやり方である。

 若い頃から叩き上げて一国一城の主になったのだから、それはそれで人の認めているところである。ところが、叩き上げの人によくあるタイプだが,全てが即物的であって、金と支配力以外には権威を認めたがらないという悪い癖を持っている。人間としての品格が備わってくれば、おのずから人は慕ってくるものであるが、人に「社長」と言わせるために、自ら進んで「社長」と自称してみたい稚気がある。先ず形から入っていこうというせっかちな性格がしからしめるのかもしれない。また猜疑心が強く、人を信用できないところがあって、性悪説の人間観に徹している。スノビズムの臭いを日常茶飯事の挙措言動にぷんぷんと漂わせている。これが、勇と肌の合わないところなのである。

 我が儘で、常に自分が中心にいないと気が済まないという性格はお守りするには気骨の折れるところであるが、義父であるということから、一種の諦観にも似た気持ちでお守りしているというのが実情である。口煩くて一緒にいるだけでも気疲れする人である。

 勇の処世観の特徴は、このようなタイプの人間と合わせて生活していくには傍観者に徹して自分の感情を殺すことであると自己規制しているところにある。そして勇が今岡研一に対して敵意を感じたときにとる最大の効果的な戦法は、敬して遠ざけることである。端的にいえば相手を無視することである。自己顕示欲の強い人間程、相手から無視されることは耐えられない最大の侮辱となるのである。

 相手を無視する戦法は、考え方によっては、卑怯なやり方である。しかし露骨に生臭い感情をぶっつけあって、争うことには百害こそあれ,一利もないというのが、勇の処世観である。これは相対的価値観の上に成り立っている人生観である。人が絶対的価値観を信奉するとすれば、価値観がお互いに異なる場合には、徹底的に戦って相手を自分の価値観と同じものに変えさせるか、自分が相手の価値観に宗旨変えするかしない限り、対等な関係は成立せず、支配と服従の関係しか残らないことになる。それがいやなときには袂を分かつしか術がなくなってしまうことになる。

 平和主義者は必ず、相対的価値観を信奉する人である。勇の道徳観の基本にあるのは,長幼序あり、君臣義ありという儒教精神であるが故に価値観の異なる義父に対して争うことが悪徳になるのである。


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