前潟都窪の日記

2004年12月16日(木) 酒のこと��

 高校生の頃一度だけビールを口にし、その苦いのに閉口して何故こんな苦いものを大人達は好んで飲むのだろうと不思議に思ったことがある。悟さんが婿にきて畳表問屋の商売にも慣れ若旦那として脂が乗り出した昭和30年頃の夏のことである。日本経済は朝鮮動乱を契機に目ざましい勢いで復興を開始しており、当時私は高校へ通っていた。ビールなども、ようやく庶民の食卓に上がりはじめていたので、当時としては裕福な生活をしていた悟さんが、ある暑い日に冷蔵庫で冷やしたビールを帳面付けの合間に飲んで、一本飲みきれないのでたまたま遊びに行っていた勇に勧めて下さったのである。

 冷蔵庫といっても銅張りのアイスボックスで、オガ屑と氷塊を入れて冷やす旧式のものである。
 物珍しさも手伝って、コップに一杯ついで貰ったビールをその苦さに顔をしかめながら、捨てるわけにもいかず必死の思いで少しずつ飲んだものである。

 勇が酒を始めて口にしたのは、再度の大学入試に備えて受験勉強を始めた昭和32年3月頃のことであった。それも初めての酒であったせいか、前後不覚に泥酔した苦い思い出である。

 父は豊中の化学薬品製造工場の工場長として単身赴任中であり、従兄の婚礼に父の代役として出席したのである。父のお下がりの革靴を履いて学生服で参列したかと思う。婚礼といっても今日のように、ホテルとか会館での豪華なものではなく、茶屋町の農家の自宅に親戚縁者を招いて三三九度の杯ごとと披露宴を行う田舎式のものであった。

 型通り三三九度の杯を終えて、披露宴といっても座敷で新郎新婦を前にしての酒盛りである。田舎のお百姓達の集まりのせいか、歌を歌って座を盛り上げようとするような気の効いた人は誰もいない。私も生来の音痴ときているから、自ら進んで歌を出すほどの勇気もなく黙々と料理に箸を運んでいたが、勇さんなら上の学校へ行こうとしているくらいだから何か一つぐらいやれるでしょうと煽てる者がいた。それでも切り出せずにいると吉岡さんという中年のお百姓さんが調子外れの「ああ玉杯に花受けて」を歌いだした。
この程度なら私の方がまだましだと思った途端、元気が出てきた。「紅萌ゆる丘の上」はじめ「都ぞ弥生の・・」など知っている限りの学歌、寮歌、応援歌を歌いまくった。腹から声を出すと酒も進むらしい。また大学入試失敗の屈託もあったであろう。さらには生まれて初めて酒を飲んだため、自分の酒量の限界というものが分かっていなかったせいもあろう。勧められるままにいい気になって飲んでいるうちに突然意識がなくなったのである。

 気がついたときには自宅の布団の中で寝ていた。聞いてみると宴会が終わって、母と妹に付き添われて、およそ6kmの道のりをふらふらした足取りではあったが、きちんと自分の足で歩いて自宅まで帰ってきたという。途中しきりに酒になんか酔っていないとわめいていたそうである。喋っていることはまともだし、くどいことを除けば意識は正常であったという。

 しかし自分では、宴会の席で高歌放吟していた時に忽然として意識が消えて、次に自宅の布団の中で目が覚めるまで何も覚えていないのである。ましてや6kmの道程を自分の足で歩いて帰ってきたことなど全然知らないのである。全く隔絶した二つの世界、酩酊するまでの有意識界と酩酊後覚酔するまでの無意識界を私は生きていたことになる。無意識界では帰巣本能にコントロールされて自宅まで歩いて帰ったのであろうか。生まれて初めての、酩酊し自分を失うという体験であった。

 胸を張って酒を口にしたのは大学に入学して、法学部の歓迎会が楽友会館
で催された時である。乾杯の音頭に合わせてコップに注がれたビールを一気に飲み干し美味いと感じた。ビールは苦いものだという固定観念が打ち砕かれて、なるほど勝利の美酒とはよくいったものだと感心しながら杯を重ねたのを思い出す。

 一年浪人生活を送ったとはいうものの、もし外れていれば広島の郵政研修所へ中級公務員として研修赴任し就職することを心に決めていただけに大学へ入学できた喜びは大きかったのである。喜びが大きかったからこそ歓迎会でのビールが苦くもなく殊更に美味かったのであろうか。


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