前潟都窪の日記

2004年11月25日(木) コンパスのような女性��

 桜井香織は旧姓青山香織といい、肇と同じ町内の出身で、年も肇と同年である。肇が終戦後、満州から引き上げてきて住みついたのは、瀬戸内地方の畳表の産地として有名なH町であった。

 肇は小学2年生で、下に二人の妹がいた。満州で薬品会社の試験室に分析技師として勤務していた父は、応召し内地の通信学校勤務のまま、終戦を迎え、家族より一足先に、住み慣れた故郷のH町へ復員していた。そのため、肇の母は戦後ベストセラーになった藤原てい著「流れる星は生きていた」にでてくる主人公と同じような苦労をして肇と二人の妹を女手一つで引き連れてH町の親元へ引き上げてきたのである。
 肇がH町の小学校へ転校したとき、同学年にいたオチャッピィーな女の子が青山香織である。青山家はH町でも由緒ある家柄の旧家で、香織の母は見識高い美貌の未亡人であった。青山夫人は後妻であり、先妻の長男と自分の腹を痛めた三人の女の子を育てていた。香織は末っ子であった。なさぬ仲の長男は既に東京へ遊学しており、H町にはミッションスクールに通っている長女と小学5年の次女と末っ子の香織が親元から通学していた。

 青山夫人は亡夫が残した遺産と実家からの援助で豊かな生活をしているというのが世間の風評であった。青山夫人はなかなかの社交家で、婦人会の会長を勤めたり、学校のPTAの役員をしたりしていたが、なさぬ仲の長男を継子扱いして東京の学校へ追い出してしまったとか、女だてらにPTAの役員に名を連ねては、見識ぶった発言をするとか、娘達を中学からミッションスクールへ通わせて、見栄をはっているなどと噂されていた。それらの噂は戦後、物資の不足している時代に亡夫の遺産と実家からの援助でぬくぬくした生活をしていることへの羨望と若後家を通しながらも女手一つで旧家の体面を保っていこうとするひたむきな姿勢に対するやっかみが入り交じったものであった。

 財産を満州へ置き去りにしたまま裸一貫で引き上げてきて、一から新しい生活を始めた肇の両親も青山未亡人には羨望の念を持っており、世間の噂に同調しているようなところがあった。肇が転校してきたのは二年生の時である。世間の噂や近所の陰口が耳に入っていたので、肇は青山家の人達は特殊な世界に住む別種の人種のように考えていた。

 肇が小学三年になった夏休みに、瀬戸内海の小島で臨海学校が催されることになって、肇も初めて親元を離れ、三泊四日の臨海学校へ参加した。一学年百二十人ほどの生徒のうち、臨海学校へ参加した学童は30人程で比較的生活にゆとりのある家庭の子供に限られた。肇が香織の存在を意識したのはこの臨海学校でのことであった。


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