前潟都窪の日記

2004年11月24日(水) コンパスのような女性��

 勇は後年、青山拓子をモデルにして短編小説を書いているので以下数回に分けてこの短編小説を引用しておくこととする。

      コンパスのような女性�        �
                                  
 「あなた、もういい加減に若い娘さんのところへ年賀状を出すのは止めて下さいよ。先方だって男の名前で年賀状がくるのは、迷惑なんですから」と妻の田鶴子が横から口を出した。

 中村 肇はせっせと年賀状の宛て名を書いている。朝から一心に書いているのだが、なかなか終わらない。几帳面な性格の肇は、自分に送られてきた手紙は全部住所を切り抜いて、名刺帳に整理してあるので、夏、冬二回は決まって三日間ほどかけて、年賀状と暑中見舞いを書くのが習わしになっている。肇は年賀状を印刷屋に頼んだことがない。儀礼的に出す賀状であるとはいえ、通り一片の文句を活字で印刷して出すことには抵抗がある。受け取る相手に心が籠もっていると感じて貰える賀状を出したいと心掛けているのである。そのため、肇は毎年趣向を凝らせた版画か水彩画を自分で一枚宛描くことにしている。余白には必ず一筆近況を書き添えなければ気が済まない律儀な性格である。

 肇の賀状はいつも評判が良かった。正月三日頃に配達されてくる肇宛の賀状には、綺麗な賀状をありがとうとか美しい賀状を拝受したとか、心の籠もった賀状に接し恐縮したという文句が書き添えられているものが多かった。 

 肇の傍らで書き上がった賀状に郵便番号を書き入れる作業を手伝っていた田鶴子が一枚の葉書を取り上げた。

「あなた、桜井香織さんという方から毎年賀状がきているようですが、どういう方ですの」
「幼な友達でね。コンパスのようなものさ」
「なんですかコンパスというのは」
「船に羅針盤というのがあるだろう。あれのことさ」
「どういう意味ですの」
「僕の人生を導いて呉れた人」
「まあ、憎らしい。その方と何かあったんですか」
「ハッハッハッ。冗談さ。コンパスという綽名がついていた」
「なあんだそうなの。それにしても上手な字を書く人ね」
「うん、書道は巧かったね。確か師範の免許をとった筈だよ」
「まだ結婚はなさらないのかしら」
「いや、結婚しているんだよ」
「あらそうなの。ご主人の名前を書いていらっしゃらないから、独身の方かと思っていましたわ。ご主人がおありになるなら、なおさらのこと、あなたが賀状をお出しになるのはおかしいわ。先方のご主人だって、男から妻宛の賀状が届いたりするといい気持ちはしないと思うわよ」
「わかった。わかった。今年から出すのは止めにするよ」

 肇は妻から詮索されるのがうるさくなったので、大きな声で答えておいてその日の賀状書きを終えることにした。なまじ、妻に詮索されたら、肇がコンパスのようなものさと言った意味を千言万語費やしても的確に説明することは出来ないだろう。田鶴子は肇が机の上を片付けだしたので、それ以上詮索するのは止めて台所へ立って行った。


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加