| 2004年11月23日(火) |
父祖の地へ生還し早島町で生活�� |
岸田の寿美姉さんが泳ぎは一番うまく、飛び込み台からも飛び込んでは沖の方から手をあげて岸辺の私の方へ合図していたのを覚えている。美智子姉さんは、飛び込み台までは泳いで行くが飛び込みをするほどの勇気はなかったようである。その内、潮が引き私の犬掻き泳ぎでもたどりつける距離に飛び込み台が近ずいた時、岸田の寿美姉さんにけしかけられて、何回も塩水を飲み込みながらほうほうのていで飛び込み台まで辿りついた。飛び込み台の脚につかまりながら、岸田の寿美姉さんにクロ−ルの要領を教えてもらい、海岸へ向けて何回も練習をした。水面から顔をあげて呼吸をすることができなくて、クロ−ルは諦め、呼吸のしやすい平泳ぎを教わった。 岸田の寿美姉さんは当時、倉敷高女の二年生であったが、海水浴を終わって、宿へ帰ると私と一緒に恥じらいもなく風呂へ入って塩水を洗い流していた姿が、漸く生え揃った恥毛とともに強烈な印象を私の脳裏へ刻みつけた。それは春に目覚める前触れの感受性がしからしめたものであったのかもしれない。 早島小学校五年生の夏のことであったと記憶するが、渋川の海水浴場へ臨海学校と称して二泊三日の合宿に参加したことがある。当時は大東亜戦争が終わり、社会は混乱し、先行き経済の復興は出来るのかどうか予測も出来ず日本国全体が暗中模索の時代であったといえよう。ちなみに昭和24年の出来事を拾ってみると、下山事件、松川事件、シャープ勧告、毛沢東の中華人民共和国成立宣言、湯川秀樹ノーベル賞受賞などがある。 当時の学級担任は荻野先生であったが、生徒達は初めての合宿であり、はしゃぎまわり、皆喜びではちきれていた。飽食時代の今の子供達には考え及びもしないことだが、食料事情が良くないので、全員米を袋に入れて参加することが、条件になっていた。確か一人三合ずつの米を荷物の中に入れていたと思う。合宿所に着くと、最初にしたことが、荷物から米袋を出して大きな米櫃に移し替えることであった。合宿所での生活は楽しかったし、青山拓子との間にプラトニックな恋愛感情を育んだのはこの合宿においてであった。
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