前潟都窪の日記

2004年11月20日(土) 父祖の地へ生還し早島町で生活��

2.岡山時代
 ▼父祖の地へ生還し早島町で生活
 宇野線の早島駅に昭和21年10月21日未明に到着し駅前で畳表や茣座の卸問屋を営んでいる母方の伯母(母の実姉)宅へ辿りつき、苦しかった北朝鮮鎮南浦からの引き揚げは終わったのである。この日は早島の秋祭りの日であった。このとき残り物ではあったが、御馳走になった「ばら寿司」の味は一生忘れられない。

 母子四人が無事生還できたのは、ひとえに母の頑張りのおかげである。このあと栄養失調に陥っていた母子四人は一か月程の静養の後、健康を取り戻したのである。

 小学校2年に編入したのは昭和21年の暮れであった。

 早島小学校三年生の時の夏休みに丸百の美智子姉さんと岸田の寿美姉さんに連れられて瀬戸内海の田島へ出掛けたのが、親と離れて旅した初めての経験であった。丸百は園田百次郎商店の屋号である。丸百はこの地方の特産品である畳表の卸問屋を生業としており、父方の大叔母が初代百次郎に嫁いでいた。また母の姉が二代百次郎に嫁いでいたので、勇にとって丸百は父方からも母方からも親戚である。従って美智子姉さんは従姉弟にあたるが、勇とひとまわり程年長者である。田島は瀬戸内海の小島で尾道から船で小一時間程の所にある漁師の島である。この田島に先代の大叔母、園田 米が別荘を持っていた。別荘と言っても実益を兼ねたやりかたで、留守居番の婦人に佃煮を作らせていた。私が美智子姉さんとこの島へ遊びに行った時この別荘を手放す予定にしており、手放してしまうと田島へ海水浴に出かけることも出来なくなるので、勇に一度、田島を見せておいてあげよういうことであったらしい。勇の育った早島町には、子供達が水遊び出来るような川も池も近くになかったので、海辺で数日間を過ごせることは無上の喜びであった。戦後間のない頃であり、水着などという贅沢品は求めようにも売っていなかった。男の子は当時サポーターと称していたが、布切れで出来た三角形の金隠しを付けて海や川に入った。女の子はシュミーズとズロースを着用していた。


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加