勇は引き揚げが間近に迫った頃、運悪くマラリヤに罹ってしまった。寒気がするときには幻覚が生じて、表に干してある赤い洗濯物が、鬼に見えるのであった。また、悪寒のするときには、体がぶるぶる震え、布団を何枚重ねて掛けてもとまらないのである。しまいには妹に掛け布団の上にあがって貰うこともしばしばであった。そんなときには、天井はぐるぐる廻り、今にも落ちてきそうに見え、悲鳴をあげることもあったらしい。
マラリヤの特効薬はキニーネである。南方特産の薬でキナの木の皮を干して作られる一種のアルカロイドである。飲めばよくなるということが判っていても、物資の乏しい時代であるからそう容易に手には入らない。このときも、母が四方八方尋ね廻り、なけなしの財布を叩いて高価なキニーネを入手して下さった。特効薬といわれるだけあって、キニーネの効き目は著しく、さしもの高熱も嘘のように出なくなってしまった。しかし、この時衰弱した体は、その後の引き揚げの道中で、大きなハンデキャップとなるのであった。
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