鎮南浦はソ連軍の占領下にあったので、ソ連の兵士が進駐してきていたが教育水準が低く、田舎者で腕時計が物珍しいのか、徴発した腕時計を両腕に二、三十個も付けて得意になっているものや、指輪を指という指にはめられるだけはめて喜んでいる兵士が多かった。
兵士達は煎った向日葵の種や南瓜の種をポケットから取り出しては口に投げ込み、皮を辺り構わずふき散らしていた。私達はソ連兵のことを「ロ助」と蔑称していた。「ロ助」に凌辱された婦女子もあったので、日本人は「ロ助」の姿を認めると逃げるようにしていた。夜間に鉄砲を打ち込まれた家もある。どうも鎮南浦に進駐してきたソ連兵は程度の低い粗暴な連中が多かったようである。この時の悪い印象があるので、勇はソ連という国、ロシヤ人という人種にはいまだに好意が持てないのである。
この工員社宅における無為の約一年間は、成長期の子供達にとっては就学上の見地からは無意味な期間であった。しかし、世間を知り、雑学的な智恵を身につけるという見地からは意義のあるものであったのかもしれない。 好奇心旺盛な子供達は、つれづれを癒すために、大人達が指している将棋や囲碁を見ているうちに何時の間にか覚えてしまっていた。見ようみまねで指していた将棋が指導者の大人を凌駕する程の腕前になっていたり、近くの池で鮒を釣ってきては夕食の足しにしたりしていた。また、朝鮮人の牛車がこぼして行く石炭を拾い集めてはオンドルの燃料にしたり、捕虜になって使役に使われている元日本兵達の収容されているキャンプへ「ロ助」の歩哨の目を盗んで見舞いに行き、鉄条網越しに兵隊さんから、残飯で握ったおむすびを土産に貰っては喜んでいた。
飽食の時代からは考えられない敗戦国の外地居留民が飢餓一歩手前の状態で苦しんでいた当時の暗い思い出である。
子供達がキャンプへ現れると、兵隊さん達も「岡山県の子供はいないか」「熊本県の子供はいないか」「秋田県の者はいないか」と同じ出身県の子供に会いたがった。それは、同県人であれば、便りをことづければ自分の消息を内地の肉親に伝えて貰えるであろうというはかない期待を、内地へは多分早く引き揚げるであろう、民間人の子供達に託したかったからである。
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