二週間程滞在した神田さん一家は、新京へ一度帰ってから、家財を整理し内地へ引き揚げると言って占領下の満州へ向かって出発したが、無事内地へ帰還することができたのかどうかその後の消息は一切判らず終いである。 神田さん一家が新京めざして出掛けたのと相前後して、我々一家も山手社宅から工員社宅へ強制移住させられた。山手の職員社宅が平屋造りで八畳のオンドル一部屋、六畳と八畳の和室二部屋、六畳敷き程の台所、二畳敷きの玄関、浴室、便所という構成であったのに比べて、引っ越しした工員社宅は同じ平屋造りだが、六畳のオンドル一部屋、六畳敷きの和室、四畳半の台所浴室、便所という手狭な構成であった。しかもこの建物に二家族が同居させられたのである。勇の家では母、勇、二人の妹幸子、京子の四人家族であった。
同居したのは山形県出身の片桐さんという新婚間もない夫婦で子供を身籠もっていた。この手狭な家で約一年間内地へ帰れる日を待ちわびながら、不自由な生活を余儀なくされたのである。
日本鉱業へ勤務していた人達ばかりであったから、お互いに助け合いながら生活していたと思うが、敗戦と同時に職を失い、手持ちの衣類やら指輪を米、こうりゃん、芋などに交換してもらいながらの竹の子生活であった。ソ連軍の占領下にあったので、通貨はソ連軍の軍票で日本国政府発行の通貨は日本人社会内での特殊な取引でしか通用せず、食料品を朝鮮人から購入しようとすると、不利な割合で交換した軍票によらなければならなかった。
疎開先へ過半の家財や衣類を送ってしまっていた勇の家には、物々交換する種がないので、母が朝鮮人の経営する農園へ畑仕事の手伝いに行って、報酬として貰ってくる芋や、僅かな米で飢えをしのいだのである。働き盛りの男は殆ど出征していたので、男といえば老人か、会社の保安要員として残っていた人達だけであったから、どこの家庭も売り食い生活をしていた。保安要員で残った男も戦時中に朝鮮人労働者を職権をかさに殴ったり、叩いたりして使っていたので、終戦を境に朝鮮人労働者達から仕返しを受けて、半殺しの目にあった。職業軍人の杉淵氏や保安要員であった後藤氏は、朝鮮人の復讐を恐れて女装し、知人宅を渡り歩いて匿ってもらっていた時期があった。虐げられた人間は、機会を得ると狂気じみた私刑を行うものである。このような一種の無法状態が発生し治安が乱れたのは敗戦直後の短い期間であった。やがて、良識のある朝鮮人指導者が、私刑を禁止し、秩序が回復されたが敗戦国民の悲しさで、いつ何時被害を受けるか判らないので、若い娘を持つ家庭では、娘達に男装させるところが多かった。
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