前潟都窪の日記

2004年11月04日(木) 母子の銃後の生活��

 ある日午前中で授業を終えて帰宅し、戦闘帽を脱ぎ巻き脚半を解いて昼食の食卓へついたところ、母の前にはお湯飲み茶碗と裏の畑で採れたトマトと胡瓜の皿しか置かれていない。不審に思った勇が「母ちゃんどうして御飯を食べないの。お腹が痛いの」と無邪気に尋ねた。

「お腹は痛くないのよ。母ちゃんは次の配給日まで御飯は食べないことにしたのよ」との返事である。
「母ちゃん、御飯を食べないと病気になるよ」と勇が咎めると「勇は心配しなくてもいいのよ。勇達はこれから大きくなるのだから、御飯を沢山食べないと病気になるけれども、母ちゃんは大人だからもう大きくはならないでしょ。だから、次の配給までは畑のお野菜だけで生きていけるのよ」と母は諭すように言った。

 太平洋戦争も末期近くになって、内地が空襲を受けて東京や大阪が焼土と化したという報道は、鎮南浦の住民達にも恐怖を与えていた。特に、鎮南浦には日本鉱業の銅の精錬所があり、その煙突の高さは東洋一と言われていたので、朝鮮が空襲されるときには、鎮南浦は一番最初に狙われるであろうという憶測が囁かれ、田舎への疎開準備が始まった。家財道具の一切と衣類の入った行李や布団袋を発送し終え、身の廻り品だけをリュックサックに入れて一週間後には、体も疎開地へ出発するばかりになったとき終戦を迎えた。


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