| 2004年11月03日(水) |
母子の銃後の生活�� |
▼母子の銃後の生活 戦時中、鎮南浦では物資不足に悩まされることはあったが、空襲を受けて家を焼かれたり、身内が爆撃で死亡するという悲劇はなかった。米軍の飛行機が偵察のために、上空へ飛来したことも度々あり、夜間には灯火管制が敷かれ窓から明かりが漏れないように、黒色のカーテンを張りめぐらせた。タングステン電球には中心から直径五センチ程の円形を残して周囲に墨を塗り光りが拡散しないように工夫したことも平和な時代に生活しながらふりかえると懐かしい思い出である。
父の出征後、銃後を守る母子4人の厳しい生活が続き、いつしか昭和20年の夏を迎えていた。この頃になると戦争も終局に近づきつつあったため、配給制の食料品も日に日に品数、量ともに少なくなっていった。とりわけ、角砂糖は勇にとって物資の乏しかった当時の生活状態を偲ばせる霊媒のようなものであり、それはまた母の慈愛を思い出させる魔法の物質である。乏しい食料品のなかから工夫して作られた母の献立も、風邪をこじらせて寝込んでいる勇の喉を通らなくなったことがある。主食の米は貴重品であったから、こうりゃんや大豆の絞り滓を米の替わりに支給されていた当時の食生活の中では、病気になったからといって毎日、米のお粥を食べることは出来ない相談であった。そんな中で、母が朝鮮人の知り合いに頼みこんで闇の物資である角砂糖を十粒程手に入れてきて下さったのである。この角砂糖の効果はてきめんで、甘いものが好きであった勇の、減退していた食欲を引き出すのに魔法の薬のような役割を果たした。
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