| 2004年09月03日(金) |
【日の没する沙漠の国にも雪は降る・・モロッコ��】 |
日の出を砂丘で見るというのが今日の旅程の眼目であるから、朝は早かった。4時半にモーニングコールがかかり、5時半には4WDに分乗してまだ真っ暗の中をメルズーカ砂漠へ向けて出発した。次第に夜が開けてくるに従い砂漠の広大さが判るようになる。30分程走行すると駱駝が屯している一角に到着した。
ここで希望者は駱駝に乗って砂丘を小高い丘になっているメズルーガ大砂丘まで 遊覧するのである。私はチュニジアで乗った経験があるので歩くことにした。このころになると空もようやく白みだして人や駱駝の姿がはっきり見えるようになる。
駱駝の一隊と歩行者の集団が歩きだすと驚いたことに、駱駝の群れと一緒に屯していた男達が一斉に歩行者の集団に襲いかかってきた。砂丘は歩きにくいから手を引いてやろうというのである。失業率25バーセントというこの国では観光客はなにかにつけ、仕事の種と目されているのである。手をひくことによりチップを期待するし、掘り出した砂漠の薔薇やアンモナイトの化石等を売りつけて商売をしようとの魂胆なのである。
ヘルパーと称するこの種の人間が沢山いるから注意するようにとの予備知識があるから、彼等の思惑通りにはならない。しかし、そのうち普段歩き慣れていない女性等は次第に彼らの手助けを借りるようになってくる。するとそれにつけ込んで、物陰に連れ込み法外な値段で土産物を売りつけようとしたりする。砂の上は足をとられてなかなか歩きにくい。特に坂道になると歩行の困難さは増すばかりである。それでも彼らの思惑通りになるのも癪なので、転びそうになっても決して彼らが差し出す手に掴まることはせず、最後まで一人で歩きついに丘の上までたどりついた。7時に10分程前である。待つこと約10分、とても寒く風は凍てつくように冷たい。
やがて東の空が赤く染まりだして、太陽が顔を覗かせた 。感激の一瞬である。一旦顔を出すと日の上がるのはとても早い。みるみるうちに大きくなって正視できない程眩しくなってくる。幸いビデオカメラのファインダーを通してみていると眩しくなく太陽が中天に昇るまで観察することができた。その頃には、はやくも帰路を急ぐ行列が出来始めた。
再び4WDに分乗してホテルへ帰り遅い朝食をとった後、長駆ワルザザートまでの通称カスバ街道をバスドライブである。途中モロッコのグランドキャニオンとも呼ばれるトドラ渓谷に立ち寄り昼食をとった。切り立った断崖の下に開けたオアシス の町である。日向にいれば感じないが日陰になるととても寒い。砂漠の大陸性気候というものの厳しさが肌身を通して実感できたと思った。この後は限りなく続く広大な砂漠の中をワルザザードまでひた走った。
途中地下水脈が通っている箇所に掘られた井戸を見学した。たまたま水汲みにきていた少女にカメラを向けるとたちまち1ドルと言われてしまった。 キンチディザードという町で小休止し、キンディールで昼食をとった他はただひた走る移動の一日であった。
夕方ワルザザートに到着した。この町は人口7万人の町で外人部隊の駐屯地として1923年に開かれ、映画産業と砂漠観光の拠点地として発展してきた。現在はモロッコ軍が駐屯しており、軍用施設が沢山存在している。散歩の途中スーパーマーケットを見つけたのでワインを探しによってみたが、アルコール類は一切置いてなかった。ビスタシオとキャンデーと水だけを求めた。イスラムの国の田舎町でアルコール飲料を求めようとすること自体がどだい無理な話なのであろうか。
今朝はゆっくりしていて、9時50分にホテルを出発した。いくらも走行しないうちにトゥーリルトのカスバ へ到着した。カスバとは支配者の居住地のことで、メディナの内外を監視するための城塞を言う。メディナの一角に存在する場合と地方の小さな砦や地方官の邸そのもの、またはそれらのある高い城壁で囲まれた町全体をいう場合がある。トゥーリルトのカスバは後者のほうである。
このカスバはかつてマラケシュのフランス軍司令官ゲラウェイが住んでいたところとしてまた映画「シェリタリングスカイ」の舞台となったことで有名である。彼はこのほかにも映画「アラビアのローレンス」のロケに使われたティフルトートのカスバも所有していた。現在はホテル、レストランとして使われている。我々はどちらも入場はせず全景をカメラに納めただけで通り過ぎた。所有者であったゲラウェイなる人物は20世紀初頭のこの地方の部族の首長であるが、フランス軍がモロッコ南部の治安を維持するために諸部族の首長の地位を保全する政策をとった際に重用されたのである。
ワルザザートの西方33kmの地点にアイト・ベン・ハッドウ という村がある小川のほとりの丘全体を利用して作られたクサル(村全体が要塞化されたもの)と呼ばれるカスバで保存状態は極めて良好であり、モロッコで一番美しい村と言われている。 この村には現在僅か5家族だけしか住んでいないが「アラビアのローレンス」「ソドムとゴジラ」「ナイルの宝石」等のロケに使われた。ここでは中へ入場し迷路のような坂道を頂上の穀物貯蔵庫まで登ってみたが、四囲を見渡せるロケーションは要塞としては絶好のものであり難攻不落を誇っていたというのも頷ける。世界遺産に登録されて補修作業も行われていた。
アイト・ベン・ハッドゥで昼食をとってからは再びマラケシュ目指して長い道程のバスドライブが続いた。
砂漠の中のドライブが暫く続きバスは次第に高度を上げていった。オートアトラス山脈山中へ入ったのである。ヘヤピンカーブの続く荒涼たる禿げ山をどんどん高度を高めながら標高2260mのティシュカ峠に差しかかったこんな所にと思える道端に陶器の壺やアンモナイトの化石が並べられている峠で小休止する観光客目当てに土産物屋が行商にきているのである。商品は平地から仕入れて肩に担ぎ運んだのであろうか、或いは高地にも窯元があるのだろうか。その辺は謎として残った。
テイシュカ峠を越えた途端に周囲の景色はがらりと変わる。今まで禿げ山だったのが大小の樹木が生い茂る緑豊かな山々に変貌するのである。そのあまりにも劇的な変化にアトラス山脈がモロッコの気候風土に与えている絶大な影響力を如実に見る思いであった。大西洋や地中海で発生した雨雲はこのアトラス山脈に遮られて西側に雨を降らせ、乾燥した空気だけが東側へ吹き抜け砂漠地帯には殆ど雨が降らないという図式が想定されるのである。造化の神の悪戯とすれば、神は砂漠の民に対してあまりにも意地悪である。
マラケシュのガイドはアラビア人とベルベル人の混血であるマジードさんという33歳の男性であった。彼は9か月間書物だけで日本語を独習したと言っていたが、意味が通じる程度の怪しい日本語を喋る。近時日本人観光客が増えたのに着目して、日本語を独習してガイドになった彼は現在受けに入っているようだ。それにしても必要に迫られやる気になれば一見不可能に思えることでも可能にすることができるという仮説を立証するような人物であった。
マラケシュではクトゥピア、サアード朝の墳墓、アグダル庭園、バヒーア宮殿、メナラ庭園、ムアシンの泉、スーク、ジャマ・エル・フナ広場 を見学した。
クトゥピアはマルケシュのランドマークとなるミナレット(祈祷塔)である。高さ77mの塔はムーア様式の建築でアールモラヒド王朝のヤール・エル・マンスール王の時の1192年に完成した。
サアード朝の墳墓にはこの王朝のスルタンやその家族や召使等大小二百人もの墓が安置されている。霊廟は三つの部屋で構成されていて木や漆喰に施された彫刻が素晴らしく、スペイン・ムーア様式の傑作と言われている。最初の部屋はミヒラブと呼ばれるメッカの方向を表す窪みのある礼拝堂である次の部屋は12本の大理石の柱が木や漆喰でできたアーチを支えていてアーメド・エル・マンスール王とその嫡出の息子や孫達が埋葬されている。三つ目の部屋にはエル・マンスールの非嫡出の子供達と彼の母堂ララ・メッサウダの墓が安置されていて、霊廟の外側は薄いピンク色に塗られている。この霊廟は16世紀に建てられたが、アラウィーン朝のムーレイ・イスマイル(1672〜1727年の在位)によって壁が築かれその存在が秘匿されていた。1917年になって壁が壊され霊廟の存在が世に知られるようになった。
バヒア宮殿は19世紀に開設されたものでメラー(ユダヤ人街)の北側にあり、豪華な装飾の大広間や愛妾用の会議室と個室には彩り鮮やかなタイルが張られ、アトラスシーダー材の天井は船底型になっていて細密画が描かれている。壁や柱の様式はアルハンブラ宮殿に勝るとも劣らない芸術作品である メナラ庭園はメディナの城壁の西側にあり、広大な庭園は12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が繁っている。中央の湖を思わせる大きな貯水池の畔にはスルタン達が逢瀬を楽しんだバビリオンが建っている。
スーク(市場) の雰囲気はフェズで体験済であったが、狭い路地の中を犇き合いながら通り抜ける醍醐味はモロッコのスークならではの独特のものがある。ここでも鍛冶屋地区を通り抜けたが足場もないほどに金属材料や、製品が置かれている狭い店先の作業場ではいたいけな童顔の少年達が溶接の火花が飛び散ったり、グラインダーの排出する削り粉が宙を舞っている劣悪極まる作業環境の中で黙々と働いている姿が痛々しかった。
最後に訪れたのは気違い広場、大道芸人広場とも呼ばれている、ジャマ・エル・フナ広場である。我々が訪れた時はまだ陽も高く、広場にはアクロバットや蛇使いなどの大道芸人が芸を演じては観客を集めていた。観光客はいい鴨にされ、狙い撃ちされていた。観光客が興味を持って立ち止まり眺め始めるとすかさず、箱や帽子が廻ってきてチップをねだられるのである。食べ物を売る屋台店も立ち並び初めていた。広場近くのレストランの屋上展望席に入りジュースを飲みながら暫く群衆の動きを見ていたが飽きない面白さがあった。日暮れに近付くにつれ恰も地から湧き出るかのように人の数が増えてきて、夥しいとしかいいようのない群衆が広場を思い思いの方向へ往来するのである。或いは大道芸人を囲む輪の中に消え、或いは屋台の前で買い物をして楽しそうにぱくついていたりするのである。ここにも喧騒と猥雑が同居してマラケシならではの光景をつくりだしていた。
マラケシュのホテルを8時半に出発して大西洋沿岸の都市アルジャディーナを目指した。ここには大航海時代にポルトガル人が開いた城塞が残されているのである。
緑豊かな田園地帯を走行しているとコンクリートの円柱を半割りにして田畑の畦に敷設した灌漑設備が縦横に走っている光景によく出くわす。灌漑設備のかたわらでは水を容器に受けて洗濯に余念のない農婦の姿も散見されるその周囲には野の花が咲き乱れているし放牧された羊や牛の群れがのんびりと草を食んでいた。農道には驢馬に荷駄を満載した車を引かせて農民が往来している。まことにのどかな田園風景である。
そのうちトラックや乗用車や馬車や驢馬が沢山駐留して大勢の人々が集まっているのを目撃した。これは火曜日ごとに開かれる青空市場だという。農家は自家製の農産物を持ち込むし、商人は日曜生活物資を持ち込んで農民相手に商いをするのである。原初的形態の物資の交換流通の最も単純な市場が開かれているのである。仕入れが終わって驢馬車に家族を乗せて帰路を急ぐ農民の姿がそちこちに見られた。
バスはやがて大きな集落に到着した。前方には海が広がっている。大西洋岸のアルジャディーダ である。この町は16世紀に貿易の基地としてポルトガル人によって開かれ、250年間彼らが居住した西欧風の街並みが城塞の中に残されている。雨水を蓄えるための大きな貯水槽やカトリックの教会、ユダヤ人の教会であるシナゴーグなどの建物も今は使われていないが史跡として残っている。訪れる人もないユダヤ人の墓地も残っていて人の世の移り変わり、栄枯盛衰を思わせる。
旅の終わりにあたり、旅行中知り得たモロッコ事情を注記しておくことにする。
モロッコは農業国であり、主たる農産物は玉蜀黍、大麦、小麦、オリーブじゃが芋、煙草、人参、オレンジ、葡萄などである。
次に収入源となっているのは観光収入であり、年間二百万人の海外からの観光客を迎える。三番目には出稼ぎ労働者からの送金である。四番目には漁業によるもので鰯の収穫が多い。五番目に鉱物資源があり、燐鉱石は世界の生産高の17パーセントを産出している。六番目は石油資源である。
国民の所得水準は一例として大学卒業の学校の先生の月給は月五百〜七百$である。失業率は25%にも及び大学を卒業しても就職出来ないことが多く外国特にフランスやカナダ、アメリカに渡るケースが多い。
1982年に徴兵制は廃止され志願兵制になったが、志願者は多く軍は魅力ある就職先と考えられている。
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