| 2004年09月02日(木) |
【日の没する沙漠の国にも雪が降る・・モロッコ�◆� |
メケネスの町は10世紀頃ベルベル人が開いた町で現在の人口は約60万人でありモロッコ有数の農業地帯である。この町の最盛期は17世紀にアラウイー朝のムーレイ・スマイルが古い建物を壊しヴェルサイユ宮殿に対抗できる豪華な王国を建設しようと夢見て、数多くの城壁や門、モスクを建設した。
特に有名なものにマンスール門 がある。イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したのでこの名前がついた。北アフリカで最も美しい門だと言われている。
メディナの中のレストランで昼食を済ませるとマンスール門をカメラに納めて、次の目的地ボルビレスへ向かった。
単調な田舎道を暫く走行すると野原の中の小高い丘の上に広がるヴォルビリス遺跡へ到着した。今までイスラム一色に彩られたモロッコの風物の中に浸りきっていた我々観光客の目には、一寸異質な感じを与えるローマの遺跡 でギリシャやローマやトルコでよく見られるキリスト教徒の遺物である。元来この地には紀元前2世紀の頃からモーリタニア王国の人々が住んでいて、ワリーリと呼ばれていた。ローマ人達は版図を広げるにつれ、この地へもやってきて紀元前40年頃ローマの属領となったのである。最盛期には一万五千人〜二万人のローマ人達が住み、凱旋門や神殿、公共浴場等の美しい建物が沢山建てられた。しかし3世紀末にはベルベル人の侵略にあって次第に衰退しやがてローマ人達はここを撤退した。その後8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に置かれイスラムの町となったが、1755年のリスボン大地震で崩壊し廃墟となってしまった。邸宅内の風呂場や部屋の床や壁面に使われていたモザイク絵なども発掘されて当時の生活を偲ぶことができる。ヘラクレスの功業を讃える邸跡にあったモザイク絵の一部は現地に残されて展示されている。
フェズは人口百万人のモロッコ第三の都市であるが、ムーレイ・イドリスにアラブ人として最初に王朝を開いたムーレイ・イドリス1世の子供ムーレイ・イドリス2世が808年に創設したモロッコ最古の都である。爾来1200年もの歴史を持つ古都はモロッコの思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀に出来たフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディト(新市街)とフランス統治下の20世紀に出来たヌーベル・ヴイル(新新市街)の三つの地区に分かれている。そして旧市街はメディナとも呼ばれ、世界最大且つ最難儀の迷路であり、中世のイスラム社会の生活の趣を今に伝えている。
最初王宮 を訪問した。ここは現国王のフェズにおける居城で新市街の南側に位置して金色の正門と緑色の屋根の対比が鮮やかである。たまたま近く国王の行啓があるとのことで、王宮職員達がレモンの果実で金の装飾を磨いていた。
次にフェズ市街 の全貌を俯瞰するため南側の丘に登った。ここには古い城砦があり狼煙台跡等も残っていた。フェズは最初、旧市街の中程を流れるフェズ川の右岸に当たるカラウイン地区に人々が住みつき市街地を形成した。次いで川の左岸にスペインのアンダルシアから撤退してきた人々が住みつき市街地を作り上げアンダルシア地区と呼ばれるようになった。フェズ川は現在道路になっていて見ることは出来ないが、今も道路の下を流れており、フェズの生活や産業の重要な水資源となっている。
市街地の全貌を頭に入れておいてからブージュルド門からメディナの中へ入り、アンダルシアモスク、カラウィンモスク、イスラム神学校(メデルサ・アタリン)、染色工場(ダッバーギーン )、織物工房、民族衣装店、彫金細工店と見て廻った。
何しろ狭い路地の両側の壁面には一坪程の面積の店に商品をこぼれんばかりに積み上げて商人達が目白押しに並んでさまざまな生活物資の店を出している。その路地を沢山の人々が肩を擦れ合うようにして往来しており,荷駄を積んだ驢馬までが行き来しているのだから一種独特の熱気と臭気と雰囲気が漂っている。
路面には驢馬の垂れ流した糞尿が散らばっているし、道端には老人が椅子に腰掛けて所在なげに道行く人々を眺めている上、欧米人や日本人観光客の団体がぞろぞろと物珍しげに店屋を覗きながら通り抜ける。
日本人と見ると店員達は親しげに怪しげな日本語で「今日は」「ありがとう」「貧乏」「さよなら」などと話しかけてくる。まさに猥雑と活気とある種の倦怠が混沌として入り混じり、メディナの雰囲気を作り出している。仲間からはぐれたら絶対に一人歩きは出来ない網の目のような迷路である。その上掏摸が多いと聞かされているので、懐中物にも気を配らなければならないし、狭い階段の昇り降りには足元に気をつけなければならず,おまけに小雨が降っているので足元が滑りやすく緊張の連続であった。ガイドが狭い門を潜るのでこれについて行くと突然広い空間が目の前に開けそこがモスク内であることを初めて理解する。ガイドが立ち止まって説明するだけの空間が路地にはないのである。
メディナ内の見学をしていて最も驚いたのはある狭い門の前でミントの葉を渡された時である。前の人が受け取っているので不審に思いながらこれを手にして狭い薄暗い階段を登っていくと、革細工が沢山並んでいる。ははあ革製品の土産物屋へ案内されたなと思いながらなおも商品の並んだ店内の狭い通路を進んでいくと突然強烈な死臭が鼻をつき、目前下方に広い空間が開け、風呂桶のような色とりどりの容器が無数に並んでいた。容器の中では半裸体の男達がせっせと動物の革を染料液の中につけて足で踏みつけているのである。フェズ市の共同染色工場(ダッバーギーン)であった。 死臭を嗅いだ時初めて門前で手渡されたミントの葉の束の意味が理解できた。その光景は強烈なインパクトを私の頭へたたき込んだ。劣悪な労働環境ではあるが何となく懐かしい風物詩を見るような思いで暫く異臭に耐えながら見とれていた。先程通り抜けたメディナの路地脇の小さな店内でせっせと革細工職人の手伝いをしていたまだあどけない童顔の少年達の姿がそこに重なった。この国ではまだ労働基準法も児童福祉法も関係のない生活が当然のこととして中世の生活そのままに営まれているのである。
やがて昼食の時間となりレストランに入ったが、これも路地の中の狭い玄関口を通って店内へ入ると意外に思われる程広い空間が開け、贅を凝らしたアラビック模様の施された壁面や柱が我々を迎えた。考えてみると例えば京都などでも間口は狭く奥行きの深いいわゆる鰻の寝床式の店舗は沢山残っており、時の権力者と一緒の町に生活する商人の知恵がしからしめたものであった。これと同様の思考形式でこうした古都のレストランも作られたのであろうか。東西の商人のしたたかさを垣間見る思いであった。
今日の日程の最後に今度は朝とは反対の北側の丘に登り再度フェズの街並みを展望した。一度市街地を通り抜けているので、街中の喧騒と猥雑を思い出しながら眺めていた。
翌日は移動日である。およそ420km走行して砂漠の入り口の町エルフードまでの旅程である。朝8時半にホテルを出発して先ずアトラス山脈の麓の町イフレンへ 向かった。ここは1600mの高地にある避暑地である。瀟洒な建物が多く今までのイスラム世界でみてきた風景とは一変してどこのリゾート地でもよく見かける建物が沢山広い敷地の中に建っていた。ここはモロッコの中のスイスという別名があるらしい。 こんな光景をみているとここがイスラム世界であることを忘れそうである。
昼食はアトラス山脈の山と山の合間にある町ミゼルトでとった。ここは黒大理石の産地でアンモナイト等 古生代の化石を含んだ石が産出される。ここで大理石の加工工場を見学した。今まで見た家内制手工業の工房とは異なって近代的な石材の切断機や研磨機が設置されている工場であった。とはいっても設備だけが光って見える粗末な建物であり、あくまで町工場の域を出ない種類のものであった。ここでは細長い貝の化石を沢山含んだ大理石やアンモナイトの入った石が珍しかった。
昼食後アトラス山脈を超えた。途中アトラス杉 の繁る森で下車して森林浴を楽しんだ。樹齢二百年もの見事な杉もみることができた。折から2〜3日前に降った雪が溶けずに日陰に白く残っていた。
ザード峠2170m、タルゴム峠1907mを越えると景色は一変する。そこには荒涼とした土塊の山々や砂漠が控えている。川が流れている所にはナツメヤシの生い茂るオアシスが開けている。荒涼たる岩山の間を走行したときの光景はカラコルムハイウエイで見た光景と似通っていた。
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