前潟都窪の日記

2004年08月31日(火) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア��】

朝八時にドズールへ向けて出発。とても寒いので用意していた厚手のベストと首巻きを膝から下へ巻き付けて脚の冷え込みを防ぐ。途中 通り抜けたジェリド湖は塩水湖で殆ど水がなく、湖底が干上がって塩で白く光輝いていた。予め説明を聞いていなければ雪が積もっていると思ったかも知れない。砂漠の地下に塩源があって雨が降ると窪地に水が溜まり地下の塩分を溶解し塩水の湖ができるらしい。そのうち日照のために水分が蒸発して塩だけが地表に残り白く輝いているという仕掛けである。いわば効率百%の天然の塩田が砂漠に出現すると考えた方が分かりやすいかもしれない。砂漠の砂の中から塩が採れるとは知らなかった。この湖は大きな湖であるが水を湛えたところでも水深は浅く、過半の部分が干上がって、塩を湖底の砂地に結出している。道中この塩を採取している工場も目撃することができた。

 ドズールの町で見学したウルド・エル・ハデフ地区はこの町で一番古い地区で14世紀に作られたという。砂と粘土を混ぜ合わせて作った日干し煉瓦の町並は煉瓦色一色で一種独特の風格をもった景観をつくり出していた。この町は条例で煉瓦一色の町並にすることが決められているという。壁には幾何学的な文様が彫刻されていてとても美しい。 

 午後からは四輪駆動のワゴン車に五〜六人宛分乗して、山や渓谷を探訪して歩いた。探訪した先はシビカ、タメルザ、ミデス等の山中のオアシス
村である。



映画イングリッシュページェントはこの辺りの砂漠と山々が舞台として使われたそうである。険しく切り立った崖や山が大きく割れた谷と遙か下を流れている川があるかと思えば、椰子の木が数本かたまって生えている僅かな平地など変化に富んだ景色を堪能した。タメルザのグランドキャニオンではほんの目と鼻の先にアルジェリアの禿山を望見することもできた。またこれらの渓谷を巡り歩いていると、一つの部落がそっくり廃墟になっている所が何箇所かあった。これは数年前に大雨があって大洪水となり全村破壊された跡だということである。この時の水流の速度は秒速百mにも及んだというからいかにすざましい洪水であったかということが判る。       

 ケロアンへ向かう途中ガフサという人口15万人の町を通り抜けた。この町は燐鉱石が出るので鉱業の町として賑わっている。燐鉱石は年間に八百万t産出しその大きな輸出先の一つが日本であるという。ガフサの町には紀元前八千年頃の遺跡があるというから古くから開けた町で、その後ローマの植民地にもなっていた。キャラバンが集まる地でもあった。走行中キャサリンという町を通過したが、ここにはシャンビー山という海抜1544mのチュニジアで一番高い山があるし、キャサリン峠は第二次世界大戦で戦場になった所としても有名である。またこの地にはフェニキヤ人の墓も発見されている。

 途中のスベイトラの町に入ってくると街道沿いに住居跡らしいローマ人の遺跡が続いている。かなり大きな遺跡が保存状態もよく残っていた。神殿の建物やフォーラムもそれと判る形で残っているし凱旋門も残っている。ローマ人の都市作りの輪郭がはっきり判る形で遺跡として残っていた。往時ここには二万五千人のローマ人が住んでいたというからかなり大きな都市であったことが判る。その後異民族のヴァンダル族が侵入しこの地を支配していたがビザンチン帝国のユスチニアヌスに533年に滅ぼされてしまう。ビザンチン時代に入ってからはローマから派遣された総督により統治されることになったが、グレゴアールが総督の時、この地へ侵攻してきたウクバの率いるイスラム教徒の激しい攻撃を受け645年に敗退してしまった。従ってチュニジアのイスラム化はこの地から始まったのである。

 イスラムの聖人ウクバはこの地を平定すると、669年に前線基地をケロアンへ移し、モスクを建てるなどして以後ケロアンがイスラムの四大聖地として栄えることになるのである。

 我々のバスもスベイトラを後にしてやがてケロアンへ到着した。
 ケロアンではグレートモスク、サハブ霊廟、貯水場跡を見学した。グレートモスクは聖地のモスクとしては予想していたよりこじんまりとしていた。黄土色のモスクの中庭を長方形に囲んで建っている数多くの柱はそのアーチ型の梁とともに美しい建築美を表現していた。サハブ霊廟はモハメットの若い頃の友人にして聖者であるアブ・ザマエル・ベラヴィが眠る霊廟である。このモスクのミナレットの壁に施されたセラミック製の装飾は素晴らしいと思った。

 ケロアンはチュニスの南165kmに位置し周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部の町である。この町は7世紀にウマイヤ朝から派遣された総督スティ・ウクバによって建設されたマグレブ地方(チュニジア、アルジェリア、モロッコの総称)の聖地である。以後アグラブ朝(9世紀)、ファティマ朝(10世紀)、ズィリー朝(11世紀)の首都して栄えることになった。1517年にベドウィン人の侵略を受け町は破壊されてしまい首都はチュニジアへ移されたが、イスラムの聖地としての役割は連綿として現在に続いている。イスラムの四大聖地の格付けはメッカ、メジナ、エルサレム、ケロアンの順とされており、ケロアンへの巡礼七回はメッカへの巡礼一回に相当すると言われている。

 ナブールで陶器工場を見学してからバスはケリビア、ボーン岬を経由してチュニスへ向かった。昨日までの砂漠はなくなり窓外には緑豊かな畑が続いてアーモンドの花が白く咲き誇っていた。オリーブ畑やサボテン畑もなお多い。

 チュニス市にあるバルドー博物館の建物はオスマントルコのベイ王朝の統治者の宮殿であった。これが、1882年に博物館として衣替えされたものである。この博物館で有名なものはその世界一の収蔵量を誇るモザイクである。ローマ時代のキリスト教徒の墓石を飾っていたものが多い。ギリシャ神話、ローマ神話等を題材として物語を絵解きしているものとか当時の動物や戦闘の模様を描いているものもある。当時の社会の風俗や動物の種類、狩りの方法等をしるための有力な資料を提供している。神話や伝説を勉強して再度訪問してみたい魅力に満ちた博物館である。


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加