| 2004年08月29日(日) |
【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア� � |
▼チュニジアの旅 チュニス、ハマメット、スース、モナスティール、ジェルバ島、マトマタ、ドウーズ、ドズゥール、ケロアン、ホーン岬 2000年1月11日〜1月20日
ピュルサの丘はカルタゴ発祥の地とされている。伝説によればフェニキャの王女エリッサが紀元前814年にこの丘に植民都市を建設しようとした時現地人から牛革(ピュルサ)一枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたので、彼女は牛革を切り裂き細長い紐を作り、その紐で土地を囲って広い領土を獲得したと伝えられている。カルタゴが繁栄した頃は数階建ての建物がこの丘に集まっていと考えられており、丘の斜面にはポエニ戦役時代の住居跡が発掘されて遺跡として残っている。この丘の上からは現在のカルタゴ市街を見下ろすことが出来、ラッキーなことに折から対岸に虹がたつのを目撃することができた。
三回目のポエニ戦争で完敗したカルタゴはローマ人によって徹底的に破壊され廃墟跡には塩を撒いて人も住めず作物もとれないようにされたと伝えられているから、ここにはポエニ時代の遺跡としては住居跡だけしか残されていないのもうなづける。
現在、遺跡の点在するカルタゴの地はチュニス郊外の高級住宅地に変貌しており、大統領官邸や外国大使公邸なども集まっている。この一帯の住宅は概ね白壁でブルーの窓枠の建物が多く地中海の海の色とよく調和している。
トフェの墓はポエニ時代にはバール・ハモン神(フェニキヤ古代の神)とタニト神(カルタゴの守護神)を祀る聖域であったところである。当時カルタゴには幼児を殺して神へ捧げるという生贄の習慣があったらしく、小さな墓が沢山並んでおり幼児の骨の入った骨壺も沢山発見されている。現状は単なる墓地にしか見えないし、近くにはフェニキヤ人の墓も残っている。それにしても戦勝祈願と都市の繁栄のためとはいえ幼児の首を切って燃え盛る火の中へ投げ入れたというカルタゴ人の宗教観や死生観には、我々現代人はついていけないおぞましいものがあると思った。
本日最後に訪れたローマ人の浴場跡 は比較的保存状態もよく当時の娯楽センターの面影を留めている。これは五賢帝の一人であるアントニヌスによって二世紀に建設されたものでカラカラ帝の浴場に次いで二番目に大きい浴場であったといわれている。海を背景にして建設されたこの浴場は娯楽場としては絶好のロケーションであり、現在の大統領官邸はここに隣接して建てられており物々しい警護がなされていた。
昨夜はチュニスから東南約60kmに位置するハマメットのホテルで泊まった。ハマメットの海岸線にはホテルが目白押しに建っており、ハマメットだけでホテルが90以上あるという。そして今なお建設中のホテルを沢山目撃することができた。ホテルの近くの海岸には大規模なマリーナを建設中であり、これが完成すればリゾート地として更に大きな発展が予測されることを見越しての先行投資と思われる。因みに最近のチュニジアの観光収入はGNPの52%に匹敵するというからなるほどとうなづける。ここはフランスの植民地であった1920年代からリゾート地として開発が進められ、数多くの著名な作家や芸術家に愛されてきた所でもある。我々が宿泊したマルコポーロホテルはスペイン人が経営するチェーン店の一つでオープン後、まだ日の浅いホテルであった。 ポート・エル・カンタウエイのマリーナ
今日は朝市が開催される日だということで、最初に見学に訪れた。道路端に商品が並べられる原始的な青空市場である。野菜、果物、衣類、各種食品日用雑貨類、民芸品が所狭しと並べられて威勢のいい売り子の掛け声が飛び交って、沢山の現地人や観光客に売り込みをしていた。どこの市場でも見られるお馴染みの光景であるが、強烈な印象を受けたのは最近の日本では見られなくなった古着屋と古靴屋が繁盛していることであった。山積みされた古着をバーゲンセールのデパートの如く、身なりのいい老若男女が群れをなして物色しているのである。我が家の箪笥に死蔵されている衣類をここへ持ってくれば有効に処分できるのではないかとふと思った。 ハマメットのスペイン砦
特に買いたい物も無かったが世界各地の梟の小さな置物を集めているのでチュニジア記念にと物色したら気にいったのが一つ見つかった。アラビア商法は先ず買い手が値段を聞き、売り手の言い値に対して買い手の希望金額を提示するというやりとりを何回か繰り返して、最後は互いに歩み寄って値段が決まるという過程を辿る。最初の言い値の半値八掛け二割引き(約三分の一)であれば買ってもいいと腹を決めて先ず値段を聞いてみた。するとボールペンを貸せというので渡すと紙切れに35ディナールと書いて提示した。高いというと幾らか希望の値段を提示しろというから7分の1の5ディナールだと言い張っていると10ディナールまで下がった。これ以上下がらないというので6にするなら買ってもいいと譲歩すると9にするという。それではいらないと立ち去ろうとした。すると追いかけてきて6ディナールにするという。そこで交渉成立、金と商品を交換した。最後にボールペンを返せというとちゃっかりポケットに仕舞い込んでこれは子供へのプレゼントだといって返そうとしない。さすがにアラブ商人はしたたかである。
次はハマメット市内のメディナを見学した。メディナとは城郭内に形成された古い市街地のことである。古い建物の間を通る迷路のような狭い路地には土産物屋が店を開いていて、どの店も似たような商品を並べている。このメディナの一角にはカスバと称される要塞が残っている。スペイン砦とも呼ばれていて城門をくぐって中庭に入ると数台の大砲などが置いてあるだけでがらんとしている。1977年から2年ほどかけて大修復がなされたとの説明書きが建っていた。城壁に上がるとハマメットの旧市街や新市街が一望できランドマークであるグランモスクのミナレットも見えている。また折からの好天に恵まれて濃紺の地中海やボートを横たえている砂浜を見下ろすことができる。砂浜には椰子の葉で葺いた茸様の日除けが並んでいて面白い景観をつくり出している。
スース市内のメディナにはリバト と呼ばれる8世紀に建てられた要塞があり、これは異教徒や他民族を侵攻するための前線基地としてまた町を外敵から守るための要塞として機能していた。またスースには9世紀のアグラブ朝時代に建てられたグラン・モスクがあるが、外見はモスクというよりも要塞に近い景観である。ミナレットさえ外敵を監視する物見の塔と見えなくもない。スース市内のショッピング・センターを見学してから本日の宿泊地モナスティールへ向かった。
モナスティールはチュニジア建国の父と言われるブルギバ初代大統領の出身地であり、同大統領がリゾート地化して発展させようと大いに力を入れたところである。モナスティールにはブルギバ元大統領の華麗にして壮大な霊廟が威容を誇って建てられていて、観光名所の一つになっているが、御本人は97歳で未だ健在である。同大統領はパリ大学に留学しフランスからの独立運動に従事した。何度も投獄されたが、1955年に独立を獲得し、チュニジア王国首相になりついで王政を廃止してから共和政体になると初代大統領に選出された。内政上は新憲法の制定、政教分離、一夫多妻制の廃止、女性参政権の承認、男女共学の推進などの改革を行い独裁政治でチュニジア国の近代化に貢献した。1975年には終身大統領になったが、老害が多くなり1987年ベン・アリ首相に解任された。
ブルギバ大統領の霊廟
チュニジア各地を巡り歩いていて印象に残るものに学校の校舎がある。どんな辺鄙な片田舎であっても校舎だけは立派な建物で目立っている。これは就学率を高め文盲をなくそうとする政府の政策の現れでまず学校を居心地のよい魅力あるものにすると共に子供を就学させない親に対しては罰金を課する強い姿勢で臨んでいるという。こうした奨学政策もブルギバ初代大統領の精神を引き継いだものである。それでもまだ学校の数が不足していて少ない施設を有効に利用するため、就学の時間帯に時差を設けた二部制が取られているという。
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