前潟都窪の日記

2004年08月08日(日) 【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国��】

平成14年12月16日(月)
 8時にホテルを出てコゾ島へ渡るべくチェルケウア港へ向かった。道中、岬や要衝の地には石灰岩でできた物見の塔や狼煙塔が必ず建っており、外敵に備えて怠りなかった当時の島民の緊張した日常生活が偲ばれる。また街道筋には笠松の並木があり、ローマの強い影響があったこともよく判る。平野に広がる田圃は一様に、もう馴染みになってしまった石組みで区画されている。セントポール湾に差しかかると湾の入り口に無人島のセントポール島の姿が黒ずんだ島影を太陽に輝く海面に際立たせていてなかなかの絶景である。

 このセントポール島には聖パウロの遭難の史実が残れされている。彼は当時公式の宗教ではなかったキリスト教を広めた罪でシーザーの命により外国の地からローマへ連れ戻されローマの法で裁かれることになったが、難を逃れて冬を過ごすためにより安全な港であるクレタ島へ移動する予定であった。ところが悪天候のために航路を外れ14日間船は大きく揺られながら流され、マルタ島のアウラポイントに着いたが、その翌日には風と反対の方向に進もうとしてサンパウロ湾に漂着し、タルーガッツイーニという岩礁に座礁した。遭難者達はこの地で体調が回復するのを待って首都のメリーダ方面に移動をはじめた。そしてラバトの聖パウロの洞窟に拘留されながらも約三カ月間滞在し土地の有力者や住民達に数多くの奇跡を行いキリストの福音を説き続けたと伝えられている。

 風光明媚なセントポール湾を後にしてやがてメッリーハ湾が見下ろせる場所にさしかかった。この近くにはポパイ村というのがあった。ポパイ映画が撮影された場所で今は村起こしのためにポパイに因んだ企画を色々考え出し観光地として売り出しているという。

 メッリーハ湾の日当たりの良い丘陵地に緑色の小さなコンテナハウスがごちゃごちゃと建ち並ぶ一角があった。これはマルタ庶民達の保養地でコンテナハウスは別荘であるという。

 チェルケウアの港につくと対岸には有人のコミノ島とゴゾ島が目と鼻の先に見えていてフェリーがひっきりなしにゴゾ島とマルタ島を往来している。

 僅か20分程の乗船でやがてゴゾ島へ到着した。船中ではインド人の子供連れの若い夫婦と乗り合わせた。三人の子供連れであったが、一番下の女の子は二才だという 人懐つこい可愛い子なのでキャンデーを与えるとはにかみながらも受け取った。すると父親がその子に向かって「セイ・サンキュ ー」としきりに教えていた。親が子供を躾ける自然な光景として旅の想い出に残るものである。

 夕食の時、このことを話題にすると同行の老婦人が「それが世界各国の共通の人情というものでしょうが、最近の日本の若い母親は変わっていますよ。可愛い子供に飴を上げようとすると、母親が血相変えて子供が虫歯になるから余計なことはしないで下さいというんですよ。」と嘆いていた。

 ゴゾ島ではジュガンティーヤ神殿を見学した。これも古代の神殿跡で円形の部屋を囲んで石組みの壁面だけが残っていて天井はない。ここも女性の胸部と腰部を強調した8の時型の平面になっていて男根と女陰のシンボルとなる岩や石組みが残されていたが説明を受けなければそれとは判らない配置である。往時は13mの高さにまで壁が積まれ屋根には木材が使われており、周辺の森林が神殿を覆うように繁茂していたというが、森林は船を造るために伐採されてしまい、今では樹木は全然残っていない。この神殿はシチリアから渡ってきた人々が作ったと推定されていてシチリア島にも似かよった様式の遺跡が多数存在するということである。

次にラムラ湾へカリプソの洞窟というのを見学に行った。立地的には対岸の砂浜を見下ろす素晴らしく景色のよい場所にちゃちな洞が残っているが中へは入れない。カリプソという語には懐かしい響きがあるので調べてみると二通りの意味がある。

一つは昭和32年頃歌手の浜村美智子がバナナボートでヒットした西インド諸島の黒人労働者の間に生まれた4分の2拍子の民謡のリズムのこと。と同時に彼女が流行らせた長い髪のスタイル。

 二つ目はホメロスのオデユッセイアに、妖精のカリプソに魅せられたオデュッセウスが7年間カリプソと共に住んだという伝説である。その洞窟がこれなのである。

 シュレディー村という所で小休止したが、ここには泉が湧いていて周囲には石造りの給水設備が設けられていた。現在は洗濯場に転用されて地域の主婦達の社交場になっているが往時は飲料だけに使われたものであるという。

 次にヴイクトリアのシタデルへ行った。このシタデルはコゾ島の首都であるヴイクトリアの街の北側の丘に聳えている城砦で12〜13世紀に作られたものである。1693年にこの地方を襲った大地震で打撃をうけた。現在ではこの城砦内の建物は朽ち果ててしまい人は誰も住んでいない。このシタデルの展望台に登るとコゾ島全体の展望ができる。

シタデル内のカシードラルで興味を引いたのは天井にあるキューポラの騙し絵である。天井にあたかもキューポラがあるように見える丸いドームがあるが実はこれは遠近法を応用して描かれた平面的な絵画である。また建物の配置がラテン十字になされているのも面白いと思った。

 このあとドウエザという海岸でアズル・ウインドウと呼ばれる岸壁が海水で浸食されてできた洞を見学した。インランド・シーと呼ばれる小さな内海が近くにあるとのことであるがこれは見ることができなかった。

平成14年12月17日(火) 
 東マルタの周遊ということで9時にホテルを出発して最初にグランド・ハーバーを挟んでヴァレッタの対岸にあたるスリーシティーへ行った。スリーシティとはマルタ騎士団が外敵に備えるために最初に作った城砦都市でサングリア、コスピーク、ヴイクトリオーザの3地区のことを総称する地名である。サングリア公園ではグランドハーバーを展望したが、対岸のヴァレッタの市街が計画的に作られた都市であることがよく理解できる。全市これ城砦という感じがよくわかる。次いでコスピークを通り抜けてヴイクトリオーザでは城門をくぐって宗教裁判所、セント・ロレンツォ教会を見学した。何れも城郭内にある建物である。セントロレンツォ教会はヴィクトリオーザで一番最初に建てられたものである。宗教裁判所は名前からすると宗教上の異端者を裁いたという印象を語感から受けるのだが、単なる裁判所に過ぎない。聖職者が判事をつとめたから宗教裁判所というのかもしれないが、ネーミングとしてはちょっと不自然な感じがあり実態にそぐわないところがある。

 街の佇まいはこじんまりとしており、街全体がいざ戦いという時には城砦として籠城できるような作り方になっていたのが印象的である。

 このあとカルカーラに立ち寄った。ここには第一次世界大戦の時、同盟国の英国を応援するためにマルタ島へ派遣された日本海軍の軍艦が魚雷にあたって被災し乗組員60人が戦死した霊を弔うために慰霊塔が建っていた。一人密かに般若心経を唱えて霊を慰めた。煙草に火をつけて備える同行者もいた。

 マルサシュロックという静かな漁村でシーフードの昼食を摂り、暫く長閑な漁村を散策した。










 ビルジェブ村には1989年12月23日にゴルバチョフとブッシュが会談した記念碑が建っていた。この会談後東西の冷戦が終了したのである。 

 この日は東マルタの周遊を終えてヴァレッタ市内のシティーゲートの前で解散となった。カルバッチョの「聖ヨハネの斬首」が午後4時から大聖堂で見学できるというので何人かとともにここで降りホテルへ帰るバスと別れた。

 時間になるまでヴァレッタの目抜き通りを散策して時間を潰したが最初この地へ踏み入れたときのような賑わいはなかった。平日のせいであろうか。

 大聖堂で「聖ヨハネの斬首」を鑑賞してからバス乗り場で市バスに乗ってホテルの近くまで戻ってきた。運転手にホテルの近くへ来たら教えて欲しいと頼んでおいたので、40分程もおんぼろバスに揺られたと思った頃運転手が合図してくれたので慌てて飛び降りた。ところが目印のヒルトンホテルは近くにあるのだが、交差する道路の真ん中で方角が全然判らなくて途方に暮れてしまった。運良く学生が通り掛かったので道を尋ねると前日夕食にでたとき最初にたどりついたショッピングモールまで連れて行ってくれた。そこでやっと方向感覚が元に戻った。ホテル前と言ってもとんでもない方向違いの場所で降ろされたことになる。

 一旦ホテルへ帰り暫く休んでから再びセントジュリアンの街中へ出かけて前回夕食を食べたビザハウスで夕食を摂った。うまいぐあいにここでマルタの通貨は全部使い切ることができた。


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