| 2004年08月07日(土) |
【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国�◆� |
平成14年12月15日(日) マルタ島南部のハガール・キム

へ遺跡の見学に行った。
何しろ小さな島なので40分も走行すると南端の海岸線へ到着する。この神殿の遺跡へたどり着くまで曲がりくねった細い田舎道の周辺に田園風景が展開されたが、田圃の周辺には区画するかのように必ず小さな石を積み上げた石組みの境界線 が設けられていた。そしてまだ開墾されていない荒蕪地には石ころや岩がいたるところに散在していた。
最初石組みが珍しいなと単純に眺めていたが、荒蕪地の状態を見るに及んでこの石組みの囲いの意味を了解し、苦難続きであったろうと思われる人間の営為を思いやった。つまりこの石組みは田圃を開墾した農夫達の何代にも及ぶ自然との戦いの痕跡であったのである。耕地を作りだすためには荒蕪地に無数に転がっている岩石を取り除かなければならない最初は取り除いた岩石を一カ所に纏めたに違いないが、その量があまりにも膨大であったため取り除いた岩石で田圃の境界線を築きあげることを思いつきこの形態が出来上がったのであろう。それまでにどれだけの涙と汗が流されたことであろうか。ネパール等の山間の土地で見かける段々畑と同じような労力が注ぎ込まれているのである。
ハガール・キムの遺跡は大小の石灰岩を組み合わせて積み重ねた遺構が残されているだけで説明を受けなければこれが神殿跡の遺跡であるとは思いもよらない佇まいである。小さな円形の部屋を取り囲むように石組みの壁が設けられているだけであるがよく見ると羊や山羊を生贄として捧げた石の台なども残っているし、神のお告げを聞くためのオラケルと称する穴が岩塊に穿たれていたりする。ガイドの説明で当時の神殿をイメージしようと試みるがあまりにも崩落が激しく思うように想像することができない。復元図でも掲示されていれば理解しやすいのだろうが、そのようなものはどこにも見当たらない。
男根と女陰を象徴する石や柱が神殿の入り口には残っていた。ここにはなかったが博物館に収蔵されている女性像は胸部と腰部が極端に大きく誇張された造形になっており、太った女性は豊穣のシンボルと考えられていたという。
この神殿は紀元前2700年頃に作られたものであり青銅器時代のものであろうと推定されているがまだ研究段階で詳らかなことは判っていないようである。ある考古学者は先史時代に栄え、海中に水没したと言われる伝説上のアトランティス大陸の一部でないかと推理しておりロマンに満ちた遺跡である。
さてマルタ騎士団が来島する以前の歴史について若干調べてみると以下のようである。
紀元前千年頃マルタはフェニキァの植民地になるが、前736年にはギリシャに占領されメリタと呼ばれた。その後カルタゴ、さらに前213年にはローマの植民地となった。395年にローマ帝国が分裂するとマルタはビザンティン帝国の支配下に入るが370年にはアラブ人に占領される。ノルマン人がマルタのアラブ勢力を征服したのは1090年のことであり、その後マルタはシチリア王国の封土となった。1530年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世からヨハネ騎士団にマルタ島が与えられて今日残っている建造物の建設が始まったのである。
ハザール・キム遺跡の海岸線はるかかなたには無人島のピルクル島の島影が見えていた。
次いで海岸線を走ってブルーグロット(青の洞門) まで行ったが風が強くてボートで見学する予定はキャンセルされた。危険なため船がでないのである。海岸の展望所からブルーグロットを眺めたが石灰岩が海水に浸食されてトンネルのように穴が穿き海の色が鮮明な青色であることから青の洞門と呼ばれ舟遊びの名所になっているのである。日本でいえば伊豆堂ヶ島の洞と似たようなものであろうか。
たまたまこの洞門の上から海面までロープを垂らして下降訓練をしている登山家を目撃することができた。
次に内陸部のラバトとイムディーナへ向かった。この地へ至る道中のズリエック村で石灰石を切り出している採石場 を見学した。巨大な絶壁が残されており長い年月かけて切り出された石材が如何に大量であったかが窺える。現在もこの場所では石材の切り出し作業が引き続き行われていた。
ラバトの市街とイムディーナは隣接してあった。ラバトとは城の外という意味であり、イムディーナは城の中という意味である。語源はアラビアである。イスラム世界で城砦都市のことをメデイナというし、モロッコの首都はラバトと呼ばれていることと思い併せるとこの地がアラブ人達によって作られたものであることを了解できる。 イムディーナの近辺には太古から人が住みついておりアラビア人達がイムディーナを作りこの島へ来住したマルタ騎士団の人々も当初はこの地へ定着して街を整備したのである。イムディーナは現在昼間でも人影の少ない沈黙の街とも言われていて人口は四百人ほどしか住んでいない。この街も堅固な要塞になっており1565年の大包囲戦の時には終盤戦で、オスマン・トルコ軍はこの街を攻撃したが僅かな守備隊に撃退されたという。
イムディーナの門をくぐったところには騎士団長の館 があった。城内にはカシードラルと呼ばれる司教座聖堂がありランドマークとなっている。この建物は13世紀に建設されたが1693年の大地震で倒壊しその後ゴシック様式で再建された。倒壊前の資材も一部に使われており、内部から見たキューポラは見事である。また被災を免れた壁画「聖パウロの難船」も秀逸である。このカシードラルはヴァレッタの大聖堂よりも古いものである。
ラバトでは聖パウロのカタコンベ を見学した。カタコンベとはパレスティナの地のユダヤ教徒の発案による地下墓所で、キリスト教発祥のころより、キリスト教徒に取り入れられ、初期キリスト教の伝達とともに各地に広まったものである。
この地のカタコンベはカルタゴ支配の頃にカルタゴ人の墳墓として掘られ始め紀元前1世紀から4世紀にかけて主にキリスト教徒の墓所として発展し8世紀頃まで使われたが、盗掘にあったりたして目ぼしい埋蔵物は残されておらず僅かに発見されたものが博物館に収納されている。縦横に走る地下通路の両側の壁に大小無数の穴が穿たれているが、現在は遺骨もなにも残っていない。薄暗い墓所を足元に気をつけながら見て歩くのはあまり気持ちのよいものではなかった。
次いでモスタの市街へ移動した。モスタの市街地内では教会が開門するまで自由時間ができて市内を散策することになったが、買い物に興味を示さない小生は静かな町中を歩き廻るだけであった。尿意を催し便所を探したが見つからず大変な思いであった。博物館へ飛び込んでみたりしたが便所はどこにもなかった。
なんとか我慢しているうちに時間がきてモスタ教会を見学した。折りから嬰児達が両親に抱かれて沢山集まっており、牧師が子供達に洗礼をする儀式に出くわした。日本の753のお宮参りと 似通った雰囲気が漂っていた。
このモスタ教会のドームはヨーロッパ世界では第3番目の大きさを誇ると言われるだけあって見事なものであった。因みに第1はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、第2はロンドンのサン・ポール大聖堂である。
教会の中でもガイドの説明は上の空で必死に便所を探したが見つからなかった。欧米の古い街を歩いていて寒い時などに最も困惑するのは尿意を催した時に便所がなかなか見つからないことである。旅行を上手にするこつの一つに便所をうまくみつけ休憩時間に如何にうまく用を足しておくかということがある。機内でも然りである。機内は気圧が低くなっているので体内のガスが膨張して噴出しやすい状態になっているが、食べ物が変わるのでうっかり放出すると実まででてしまう虞がある。そこで便所へ入ってガスを放出することになるが、便所へ立つタイミングが難しい。食事中や食後にはカートが通路を塞いでいて通れない。また通路が空いているときは往々にして便所には行列ができている。海外旅行中の体調管理の要諦は如何に便所をいいタイミングで利用するかにかかっていると言っても過言ではないと思う。
モニタ教会を出てサン・アントン・ガーデンに立ち寄った。イギリス統治時代に作られた庭で珍しい植物が集められているようであったが、なかなか集中して見ることができない。意識は専ら尿意の処理にのみ向いている。やっと便所があるのを発見し飛び込んだ。放出する快感と安堵感はなにものにも替え難いものがある。
ガーデンに隣接してある大統領官邸の前を通ったが小さな島の共和国の大統領官邸としては敷地も広くなかなか壮大なものであった。
この日は夕食を摂りに散歩がてら湾の海岸沿いにサンジュアンニの夜の街へ出かけた。ショッピング・モールではファッションショーなのか少女達のグループが軽快なダンスを披露していた。
昼間バスから大体見当はつけておいたのだが、道がよく判らず飲食街にたどりつくまでに苦労してしまった。いざ店を選ぶとなると難しいものである。19時頃だというのに客の入っていない店が多い。バーは若者で賑わっているようだが、夕食を摂る雰囲気ではない。かといってきちんとしたレストランへ入ってみたいと思う程腹もすいていないし、現地通貨も使い残さないように僅かしか両替していないのでこころもとない。さんざん歩き廻ったあげく、軽い食事で済まそうということになり、あまり人の入っていないピザハウスへ飛び込んだ。一組の子供連れの夫婦が食事をしていて愛想がいい。マルタ人は外来者に誰彼かまわずこうなのかと思っていたら、じつはこの店の経営者であることが後で判った。
ビールを飲みツナのサラダとミートのスバゲッティを食べたが一人あたりチップを入れて6マルタリラ(13005円)であった。イタリア料理はボリャームが多いことは承知していたので二人で分け合って食べる積もりでサラダもスパゲッティーも一人前ずつ注文した筈なのにサラダがきたのをみると日本なら3人分もありそうな膨大な盛りのサラダの大皿が二つもきてしまった。サラダたるや半切りにしたゆで卵が三個ついていてツナは茶碗一杯分ほども盛られている。野菜ははみださんばかりでおまけにパンまでついていた。スパゲッティだけは1人前だったようだが、ブロークン・イングリッシュの所為で意志がよく通じなかったのか、どうもサラダだけは2人前きてしまったようだ。隣で食べている中年の男のサラダの量もべらぼうに多いので、この国ではサラダだけは別格の扱いがなされているのではないかと思った。
なんとかサラダの野菜だけは全部平らげたがこれだけで満腹してしまう量であった。スパゲッティーは1人前を二人で分け合って丁度よい分量であった。軽く済ますつもりの夕食が満腹する結果となってしまった。たまたまクリスマス近くのせいか若いウエイトレスはサンタの帽子をかぶっていて愛嬌がよかった。
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