| 2004年08月06日(金) |
【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国� � |
▼マルタ共和国の旅 ヴァレッタ、バガール・キム、ラバト、イムディーナ、モスタ、チェルケウァ(コゾ島)、シュレディ村、ヴイクトリア、スリーシティ、カルカーラ、マルサシュロック、ビルジェフ、ローマ 2002年12月13日〜12月20日
平成14年12月13日(火) 8時26分横浜発の成田エクスプレスで一時間程早めに出かけた。橋田さんと一緒のときは橋田さんの運転する車に同乗させて貰うのだが、今回はカードで料金を支払った成田エクスプレスにした。これにはわけがある。サウジアラビアへ旅行したとき土産物店で展示されている置物の値札を確かめようと手にとったところ鳥の首が台座に固定されていなかったため転げ落ちて壊してしまった。弁償させられるはめになったが、マスターカードの付帯保険で担保される筈であったから、証明書を店から貰っておいた。ところが帰国して保険会社に請求すると保険の取り扱いが変更になって旅行の前に、旅行に使用した公共交通機関の料金をカードで支払ってあることが保険適用の条件になるというのである。そんな適用条件があるとは知らなかったのでこの時の旅行には交通費をカードで支払うということをしなかった。ために弁償は自己負担となってしまったという苦い経験があったのである。
電車の中ではニューヨークへ遊びにでかける3人連れの賑やかなOLと乗り合わせた。
成田で受け付けを待っていると橋田さんもやってきた。35人の大人数の旅行である。添乗員は唐沢という若い女性だが、異常な出目金である。バセドウ氏病の持病がありそうな顔である。
橋田さんがウイスキーを買い、私がヘネシーを買った。機中で中国語の勉強をしようとCDを持っていったが、電子機器は一切使用することが禁止されていて使うことができなかった。テキストだけを読んで勉強したが、あまりはかがいかず機内サービスのワインを3本ほど平らげてしまった。ミラノ経由でローマに到着したが、ゲートが搭乗券に記載されたものとしょっちゅう変り油断ができなかった。
初日の宿泊は辺鄙な場所に位置するホテルで、ここへ到着する間際の両側の道路に駐車された乗用車が邪魔になってバスが通り抜けるのが精一杯であった。前回橋田さんとイタリアのルネッサンス芸術を見て廻った時もローマでは郊外の辺鄙な場所のホテルであったから、ひょっとして同じホテルかなと思っていたが到着してみると予想は外れた。夜11時過ぎの到着だったのですぐ就寝したが、室温が高く汗をかいてしまった。
平成14年12月14日(土) マルタへ飛ぶため朝5時45分のモーニングコールで7時15分にはホテルを出発してマルタ国際空港へ急いだ。
10時05分発のアリタリア航空でマルタへ飛んだ。シチリア島上空からは島がよく見えた。エトナ山の噴煙は反対側の窓からは見えたらしいが生憎私のサイドからは見ることができなかった。
マルタ空港は小さな空港だが空港の建物にこころなしかイスラムの影響が感じられる。建物を撮影していて手袋の片手を落としてしまった。飛行機を降りて建物まで歩いたのも小さな空港ならではのことである。
空港にはマリアさんという英語ガイドのマルタの女性が出迎えていた。彼女の旦那はオーストリア人だという。彼女の話はネイティブの英語でないので日本人には判りやすい。
今日は土曜日なのでヴァレッタのマルタ騎士団長の館は閉館なのだが、日本人観光客が来るというので管理人の特別な計らいで開館するという。マルタ島の観光客は日本人が最近では一番多いのだそうだ。昼食を後回しにして取り敢えずそちらへ急行することになった。
バスでヴァレッタ市街のバスターミナルに到着するとそこには一様に車体を黄色に塗った年式の古いバスが沢山駐車していた。ざっと数を目で追ってみると35台ほども駐車していた。ここはマルタ島のバスターミナルになっていて全ての路線はここが起点になっているという。ターミナルは円形になっていてその中心点には円形のトリトンの泉があり、三人の人間の像に支えられた円盤に水が噴出している。人々はここで下車してシティゲートと呼ばれている城門をくぐってヴァレッタの市街地へ入るのである。
シティゲートをくぐって前方を眺めるとアッと思わず感嘆の声が洩れてしまった。リパブリック通り と呼ばれる目抜き通りには垂れ下がったクリスマス用の飾りの下を夥しい群衆が散策しているのである。国際色豊かな観光客が過半のようである。こんな小さな島にかくも多くの観光客がといった感慨を覚えた。蜂蜜色をした建物が通りの両側に建っていて装身具やら貴金属やら工芸品などの店が並んでいて、土曜日のせいもあろうが、非常に活気に満ちた繁華街の賑わいを作り出している。
ここで持参したビデオカメラでこの賑わいの雰囲気を撮影しようとレンズを向けたのだが、ファインダーが真っ暗で何も見えない。さては飛行機の中で上の棚に格納しているときスイッチが入ったままになっていてバッテリーを消耗してしまったかとの疑念が浮かぶが納得できない。この地で初めてビデオを構えたときにはスイッチはオフになっていたのを確認している。そのうちナイトショットスイッチがオンになっていることに気がついた。これではファインダーが暗くなる道理である。
騎士団長の館は二階建ての石灰岩で作られた豪華な建物である。正面のバロック様式の玄関から中へ入ると頭の禿げ上がった案内人が待っていた。昔日本に桜内義雄という代議士がいたが彼に風貌がよく似ていた。廊下の天井には絵が描かれており壁面にも由緒ありげな絵画の入った豪華な額が飾られている。何よりも注目をひくのはそこに沢山置かれている騎士達の鉄製の鎧である。今にも動きだしそうな錯覚にとらわれそうになった。
禿げ頭の案内人が最初案内してくれたのは兵器庫の建物の二階の廊下に面したうす暗いタベストリーの部屋である。ここは騎士団の重要な会議が開催されたところであるが、周囲の壁には由緒と来歴のある豪華なタベストリーが飾られていて当時の議会の様子を傍聴するための新聞記者席も当時のままの姿で残っていた。部屋が薄暗いのはタベストリーを保護するためという。件の禿げ頭の案内人は日本語で書かれたマルタ島の解説書を沢山持っており一冊千円で頒布していた。彼が休日返上で騎士団の館を開館した理由はどうやらこのあたりにあるようであった。マルタ人が親日的であると早急に判断はできないと思った。
次々といくつかの部屋 を案内して貰ったが、いずれの部屋も豪華なタベストリーや額縁に入った絵画や壁面に直接描かれた絵画で豪華に装飾されており、当時の騎士団が裕福であったことを窺わせる。因みに彼らは異教徒であるトルコ船団を襲撃する海賊行為も行って富を蓄えたと言われる。更に騎士団に参加するヨーロッパの騎士達はヨーロッパの貴族の次男坊や三男坊で裕福な階層出身者でもあったから彼が死亡すると遺産が騎士団に寄贈されるという習慣もあったようである。
大きな部屋には英国皇室関係者の肖像画とともに歴代総督や独立後の大統領の肖像も掲げられていた。注目をひいたのは女性大統領の肖像が掲げられていたことであり彼女は最近90数歳の天寿を全うしたという。
現在はコンサート等も行われるという豪華な飾りつけの大広間には黄色いシルク製のカーテンが飾られていて細かな刺繍が施されていた。フランスのリヨン製ということであった。
さて騎士団のことであるが、騎士団の源流は厳しい戒律で知られるベネデイクト派に属する修道士達である。ここマルタ島の騎士団の正式名称はヨハネ騎士団と呼ばれ第一次十字軍時代 (1096〜1291)に修道僧ジェラルドによって創設された宗教騎士団であり、1113年にローマ教会の教皇パスカリス二世によって宗教団体として公認されたものの末流である。ヨハネ騎士団は創立当初は聖なる地イスラエルで病人を看護し、疲れた巡礼者を受け入れた慈善団体であり、聖ヨハネ病院で活動していたことでも知られる。その後巡礼者がエルサレムまでの長い道程を安全に旅できるようにこの団体は騎士団としても活動した。12世紀の半ば頃にはこの騎士団の団長をグランド・マスターと呼ぶようになった。
服装は黒衣白十字の外套を着用し十字軍では異教徒との戦闘にも参加して華々しい戦果を挙げた。1291年にアッコンの砦がイスラム教徒(セルジュク・トルコ)の攻撃で陥落しエルサレム王国が滅亡すると彼らはキプロス島へ一時避難し、その後ロードス島に滞在して組織も強化され海戦ではヨーロッパ中で一番強い軍隊に成長していた。しかしながら1522年にスレイマン1世に率いられたオスマントルコ軍の攻撃に敗れて7年間程放浪した後神聖ローマ帝国のカール5世からマルタ島を与えられた。ヨハネ騎士団がこのマルタ島へやってきたのは1530年のことであった。このときから現在マルタ島に残されている建造物の過半のものの建設が始まったのである。
ヨハネ騎士団がこの島へやってきた頃この島には封建制度がなかったので島古来の住民の有力者達は彼らが来住し島を支配することを歓迎しなかった。騎士団が定住することを受け入れた儀式では騎士団長の長老がマルタ島民の特権や権利をこれまで通り尊重することを宣誓した。
この島にきた騎士団は最初内陸部にあるメディーナという街にある古い城の内側に定住し町中を整備した。そして半島の先端にある天然の良港である聖エルモ(ヴァレッタ市街最先端の砦)とビルグ(その後ヴィットリオーザと改名)に要塞を築きトルコ軍の来襲に備えた。しかし1547年と1551年の攻撃では莫大な損害を受けた。島は略奪の被害を受け島民の多数が奴隷にされてしまった。
この二回のトルコ軍の襲撃に懲りた騎士団は島の要塞化と防衛に力を注いだのである。そして一五六五年5月18日史上に名高い大包囲戦を迎えるのである。この戦いはオスマン・トルコ軍とその同盟国がマルタ、シチリア、イタリアを通ってヨーロッパに向かうため4万8千人の兵士を送り込んだのである。これに対抗するため防衛軍は8千人のキリスト教の兵士、540 人のマルタ騎士団、4千人のマルタ人、その他スペイン、イタリアからの傭兵の連合軍が組織された。31日間の戦闘の結果トルコ軍に病人が増加し、かつ兵器の補給が間に合わずトルコ軍は撤退した。この時マルタ騎士団の指揮をとったのが団長のラ・ヴァレットであった。この戦いのあとで現在のヴァレッタの街に計画的な要塞都市ヴァレッタが建設されたのである。名前は騎士団長の名前に因んでいる。
このあとアッパー・バラッカー・ガーデン へ行った。この公園はヴァレッタ市街地の南端にあり、グランド・ハーバーや対岸のセングリアやヴイットリオーザの
市街地を眺望 することができる。この場所に立って景色を眺めているとこのマルタ島という島がいりくんだ天然の良港であり、石灰岩の上に石積みの建物を建てた全島これ要塞といった構造になっているのをよく理解することができる。
夕闇迫る頃、聖ヨハネ大聖堂を訪問した。この大聖堂はヨーロッパで最も美しい教会であると言われるが、その言に違うことなく内部の装飾はバロック式であり、柱や壁に施された金箔と寄木細工の豪華絢爛たる彫刻群は実に見事である。ただただ目を見張るしかない。そして建物の両脇に設けられた8個の礼拝堂は8か所の出身国の言語別に分けられた騎士団長の墓所になっていて柩に施された大理石の彫刻が実に素晴らしい。マルタ十字の四つの先端が二つに割れて合計八つの鋭角ができているがこれはこの8か国の言語をも象徴しているのである。それはオルベール、アラゴン、プロバンス、ドイツ、フランス、イギリス、ボルトガル、イタリアの国々である。
更に注目に値するのは隣室のオラトリオに保管されているカラバッジョ作の「ヨハネの斬首」という大きな絵画である。彼の作品中唯一のサイン入りの傑作である。
この建物は1573年に騎士団長ジャン・デ・ラ・カッシュールの発意により建設が許可されマルタ出身の建築家ジローラモ・カッシェールによって1578年に完成された。
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