| 2004年08月03日(火) |
【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア�◆� |
スチャバは1388年にモルドヴァ公国の首都がおかれ1565年にヤシに遷都するまで大きく発展した古都である。
カルパチァ山脈の山間を谷越え山越えの延々4時間に及ぶ長丁場のドライブであった。このあたりでは一面雪景色で戸外は肌を突き刺すような寒気である。道中、庭先に大きな木樽に重石を乗せてキャベツの漬け物を作っている光景を目撃することができた。また入り口の門と庭の中にある井戸には豪華な屋根が作られており、事情を知らなければ井戸は宗教的な施設ではないかと勘違いしそうな趣のある独特の飾りつけである。
夕方早い時間にスチャバに到着し大城砦を遠望してからホテルに投宿した。大城砦はモルドヴァ公国の初代のペトゥル1世が1388年にゴシック様式の城砦を築き、ステファン大公の時代に円形の見張塔が増設され難攻不落の堅固な城に完成したのである とても寒い日であったが五つの修道院の見学に終始した。アルボーレ修道院、スチェヴイッツァ修道院、。

モルドヴイッツァ修道院、フモール修道院、ボロネッツ修道院の順に見て廻った

これらの修道院は16世紀初頭にモルドヴァ公国のシュテファン大公、ボグダン2世、ペトゥル・ラレシュ公等の歴代名君の治世下に建設されたもので外壁を埋め尽くす鮮やかなフレスコ画が見物である。オスマントルコとの戦争の場面や聖書の場面が描かれている。雨風に晒され太陽の光をあびながら色褪せることもなくよく保存されたものだと不思議な気持ちがした。勿論長い年月の間に落書きされたり剥落したりして傷んでいる個所も沢山あるが、色鮮やかに中世文化の様相をよく現在に伝えている。これらの壁画は文字の読めない中世の農民達に聖書の内容を判りやすく説明するために描かれたものであり、中世の農民達の敬虔な信仰生活を偲ばせてあまりある。
出発までの待ち時間にホテルの前にある小さな教会へ入ってみた。すると人一人いない薄暗い室内の一段と高い台の上に舟形の柩が設置されていて中には男の老人の遺体が仰臥の状態で安置されていたので一瞬ドキリとした。土気色の顔は蝋人形のような感じであったが、両手は胸の上で組み合わされていた。遺体の顔を常時むき出しにして参会者に別れを告げさせるのがルーマニア正教の葬祭儀礼であるというが,異教徒の我々には異様な感じを与える風習である。あまり気持ちがよいものではないので黙礼してから早々に退散した。それを追いかけるように教会の鐘が大きな音で十数回も高らかに打ち鳴らされた。時を知らせる鐘なのか葬儀が始まるという合図なのか定かではない。
バスは本日の宿泊地ドブロジャ地方のトゥルチャへ向けて出発した。途中、1565年にモルドヴァ公国の首都が置かれ、文教都市として近世ルーマニアを代表する都市として栄えたヤシの街へ途中立ち寄るものの、終日をバスの中で過ごす移動日である。
一昨日から昨日までに駆け抜けてきた環境条件の厳しいトランシルバニア地方やブコヴィナ地方に比べ現在走行しているモルドヴァ地方は平地が多く、土地も肥沃なようで地平線の彼方まで広大な田畑が広がっている。羊や牛、馬等の家畜が放牧されてのんびりと草を食んでいる風景はニュージーランドの牧羊地帯を連想させる。また起伏の多い丘陵地帯のよく手入れされた小麦畑は北海道の美瑛地区の光景とも重なるものがある。一面に葡萄が植えられている田畑はフランスの田園風景を連想させる。
今まで世界各地を訪問して農村地帯はずいぶん見てきたが、知らず知らず歴訪地の光景と比較しながら見ている自分がいるのに気が付いて驚いたりする道中であった。 単調な光景に見飽きたのか居眠りをしている同行者が多い中で移り行く景色を飽かずに眺めている自分は少し他人とはずれているのかな等と思いながらも眠たくないのだから景色を眺めているしか術がない。それはともあれ、この地方の農家の佇まいや田畑の様相は豊かに見える。
やがてヤシの市内へ到着し、チャウシェスク大統領がそのベランダで演説したこともあるという統一広場に面したトレインホテルで昼食を摂った。
ここでは文化宮殿までバスで運んで貰い、目抜きの大通りをトレインホテルまで約1時間散策した。静かな佇まいで中世の由緒ありげな建物が建ち並び美しい街である三聖人の教会、メテロポリタン教会、貴族の館等では立ち止まり外観見学をしてヤシ市街の観光を終え再びバスでトゥルチャを目指して長丁場の移動が始まった。
途中、ゲオルゲ公が三兄弟教会をもデルにして創建したといわれる要塞僧院に立ち寄りこれを見学した。男子修道院である。ここにある公衆便所はひどい代物で中国の山村を思い出し、密かに裏へ周り込み青空トイレを満喫した。
ドゥルチャへ行くためにはドナウ川を渡るために短時間フェリーボートに乗らなければならない。フェリーボートは1時間毎の運航なので17時のフェリーに乗船する計画で本日の旅程は組まれている。道路渋滞に巻き込まれたり、小休止で時間をロスしたりすることもなかった。バスは快適に走行していた。 ところが市街地の中でもないのにバスが突然急停車してしまった。時計は5時に40分程前である。フェリー乗り場の近くまできている時間帯である。すわ何事かと運転手の方へ視線を転じると黄色いジャケットを装着したポリスが二人バスの前に立ちはだかっている。パトロールカーは道端に駐車してある。どうやらスピード違反を犯してしまったらしい。
運転手が降りていき警察官にしきりに談じ込んでいたが、パトカーのところまで連れて行かれて調書を取られている。時間はあっという間に飛んで行き20分程がまたたくまに過ぎてしまった。どうも五時のフェリーには間に合いそうもない。 やがて運転手が解放されて帰ってきて慌ただしくバスを発進させた。乗り合わせた一同はそれぞれにひそひそ話で一時間船着き場で過ごす方法を相談している模様である。
丁度時計の針が5時を示したところで船着き場に到着した。フエリーボートにはまだ乗用車が何台か乗り込んでいる最中であった。船内には車がぎっしり詰め込まれて大型バスの入りこむ余地はなさそうに見える。運転手は現地ガイドと一緒にフェリーまで交渉にでかけた。一同が固唾を飲んで見守る中を運転手が笑顔で帰ってきるのが見えた。乗せて貰えるらしい。期せずして一斉に拍手が沸き上がった。フェリーでは車が少しずつ移動してバスの乗り入れられる場所の確保に動き出したようである。出来上がった空間にバスが滑り込んでフェリーは所定時間に約10分遅れて出航した。15分程の航海で対岸に着いてしまった。
船着場のすぐ近くのホテルに投宿した。顛末を聞いてみるとフェリーには先着順に乗船するので積み残されないように一刻も早く船着場に到着したくて運転手はスピードをあげたらしい。そこを運悪くパトカーに捕まってしまい罰金を10ドル個人負担で払わされることになったということであった。
ホテル専用の船着場から専用船に乗り込み、ドナウ川の一支流であるドゥルチャ支流のクルーズが始まった。ドナウ川と黒海に挟まれた湿地帯はヨーロッパ最後の秘境といわれ、野生動物の宝庫といわれるところである。運がよければペリカン等を見ることもできるということであったが、実際には鳥を少々見ることができただけでマングローブのように生い茂る原生林の中を静かに航行するクルーズは単調極まりないものであった。その中にあって漁師達が粗末な苫屋 を建てて仮住まいをしている近くに放し飼いされている飼い犬が対岸の岸を船の進行方向へどこまでもついて来るのが僅かに無聊を慰めてくれた。パンを投げてやると川の中へ飛び込んで取りに泳いでくる姿はいじらしくさえ思えた。また環境条件の厳しい湿地に芦葺きの粗末な苫屋に仮住まいして漁に勤しむ彼等の貧しい生活のことを考えていた。
このクルーズ中、ハーモニカの上手な人が居て演奏し、船旅の抒情を慰め、かつ高めて下さった。リクエストに応じて、軍歌やら懐かしのメロディーやらしきりに熱演をして下さったが、そのうち帽子を持って御祝儀を集めようとする女性が現れた。
彼女は運転手がスピード違反で罰金を個人負担するのは可哀そうだし、我々としても彼の熱意に対して感謝の意を具体的に表したいから心ある方はご協力戴きたいとの口上で聴衆の間を廻り出したのである。この善意の行為に一同異論のある人もなく進んでなにがしかの札やら銭が競うように投じられた。 運転手の罰金はカバーしてあまりある金員が集められ、添乗員から運転手に手渡して貰い大変喜ばれた。国境を越えて心と心がつうじあう心温まる出来事であった。
かくして今回の旅行は終盤を迎えた。 朝はゆっくり起き出してブカレストまでの長い移動の一日であった。 道端で道路脇に若者が座って通りかかる車に対して両手を広げて大きさを示しているのを目撃した。ガイドの説明ではその大きさの魚を持っているが買わないかというアピールだということであった。そして道路には荷馬車が相変わらずのんびりと往来していた。
途中スローボーズヤという町のレストランで昼食を摂ったときデザートのアイスクリームに線香花火が仕掛けられていたのは一興であり旅の締めくくりとして印象に残るもてなしであった。
ブカレストでは余裕時間を消化するため、自由市場を見学した。自分で作った野菜類を並べて売っている農民達の姿にも心なしか自由化した経済社会の中で豊かな生活を築いていこうという意気込みのようなものが感じられ、享受している自由のありがたさを噛みしめているように見えた。野菜類が多く並べられていたが、何故か大根だけは姿が見られなかった。そして今回の旅行期間を通じて40回程の食事でもついぞ大根の姿を見かけなかった。
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