前潟都窪の日記

2004年08月02日(月) 【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア� �

▼ルーマニアの旅 ブカレスト、シナイア、ブラン村、ブラショフ、スチャバトゥルチャ
                  2002年4月2日〜4月13日

 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。
 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。

 どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。

 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2〜3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。

 こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。
 そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。

 長い道中、ガイドから聞いたブルガリア人の生活水準について纏めておくと、自由化以降貧富の格差は大きくなっているが、平均的な月収は百五十$〜二百$であるという。

 ソフィア市内で感じたことの一つに多分社会主義の時代に建てられたと思われる無粋なデザインのアパート群の壁面の剥落や傷が目につくことであった。傷むに任せて補修が全然できていないのである。このことはアパートだけに限らず、多くの建築物が薄汚れているか壁面の剥落が目立ち補修したり化粧直しをした形跡が窺われないのである。キューバ、ドレスデン、プラハ、ブタペスト等旧社会主義国家の都市で感じたことと同じことがここにもあったのである。言ってみれば社会主義が残した負の遺産がいまだに払拭されずに醜い姿を晒しているのである。生活に追われて補修にまで金が廻らないということなのであろうか。

 ドナウ川畔の国境の街ルセには10時50分に到着した。川を超えると向かいはルーマニアである。ブルガリア側とルーマニア側でそれぞれ出国と入国の審査を受けて越境した。

 ルーマニアに入ったところで待機していたルーマニアのバスに乗り換え、3日間同行した現地ガイドともお別れである。

 ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。

 ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。

 ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。

その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。

国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。

 チャウシェスクという政治家について調べてみると、1918年生まれで1936年に共産党に入党。1965年以降書記長、1967年以来国家評議会議長(74年以来大統領) を兼任した。国家・党・軍の実権を掌握して独裁権力を振るい、ソ連とは一線を画した自主路線をたどり、71年の米中接近では「橋渡し外交」さえ展開した。しかしながら国内では一族約20人による高位高官独占支配を行い厳格な警察国家体制を敷いた。経済的には70年代後半に急増した対外債務返済のため、国内の産出物は農産物を初め目ぼしいものは全て輸出に向け国民には耐乏生活を強制した。更に農業不振は基本的な食料確保すら危うくした。こうした中、彼は国民の不満をそらせるため西部のトランシルバニア地区に住むマジャール系少数民族に対する抑圧を強化してハンガリー及び西側諸国との間に摩擦を引き起し政権基盤を揺すぶられることとなった。こうした中、89年の東欧での一連の変革の波を受け、西部のティミショアラでの反政府のデモ隊と治安部隊との衝突が起き、全国的な規模に発展していった。やがて兵士が市民に合流し89年12月22日、チャウシェスク夫妻が逮捕され24年間の独裁政権は崩壊した。12月25日には非公開の軍事法廷で夫妻は死刑の判決を受け即刻銃殺された。

 チャウシェスクの統治方法を仔細に調べてみると現在の北朝鮮の金正日政権と似通っており、金政権は近い将来ルーマニア型の革命で崩壊するであろうことが予見される。国民を飢餓線上におき言論の自由を統制する秘密警察国家は必ず破綻をきたすのは歴史の鉄則だからである。

 ブカレストでは大司教教会、旧国会議事堂、革命広場、旧共産党本部、歴史博物館(旧王宮)、大学図書館等の建物を外から外観だけ見学してブカレスト市内の観光を終えた。
凱旋門




 旧共産党本部にはチャウシェスクが群衆を前に最後の演説を行い、はじめてブーイングが起こって反政府の大合唱となったといわれるバルコニーはそのまま形で残っていた。劇的な終焉で消え去った独裁者の生涯を想うと感慨一入であった。因みにチャウシェスクはこの場での演説中に群衆の怒りを抑えられなくなり、ヘリコプターで一時急場を脱出したのである。

 ブルガリア市内を朝出発して次の目的地シナイアへ向かった。シナイアへ向かう道中、田畑の中に石油採掘の小さな油井にポンプが設置されて石油を汲み上げているのを何カ所かで目撃した。それはそれは小規模の装置であったが、ルーマニアで石油が採取できるとは小さな驚きであった。

 シナイアはカルパチア山脈の南端の山麓に開けた「カルパチアの真珠」と別称されるレゾート地である。ここにはシナイア修道院とペレシュ城がある。

 最初ペレス城を見学した。この城はルーマニアでは初めてのドイツ系の国王カロル1世(1866〜1914)が夏の離宮として19世紀に建設した優雅な城である。折から雪がちらついており、城へ到着した時には雪に覆われた森の中に尖塔が望見され、その佇まいは優雅で一瞬ドイツのノイシュバンシュテイン城に似た造りだなと感じた。雪道を城の構内まで行き、近くから城を色々な角度から鑑賞しかつ撮影した。雪化粧をした森を背景に佇立する城を仔細に観察するとノイシュバンシュタイン城とはまた趣を異にする格別の光景であった。雪が城を引き立てていた。この城ができてからブカレストの貴族達は競ってこの地に別荘を建てたので爾来この地は別荘地として発展した。 

 この城から近い場所にシナイアの修道院がある。シナイア修道院は17世紀にワラキアの王侯ミハイル・カンタクジーノがエジプトのシナイア山へ巡礼をし、感激して帰国後この地に修道院を建てシナイア山の名を貰って命名した修道院であり、以後この地の地名となったという謂われが残されている。

 次いでトランシルバニアアルプス山中のブラン村にある通称「ドラキュラ城」を見学した。この城はワラキア公ブラド・ツエペシュ(在位1456〜146 2)の祖父が居城とした城で後にルーマニア王室の離宮として使われたこともある。ドラキュラ伯爵と通称されるツェペシュは実際には子供の頃一度だけこの城を訪れたことがあるだけであるという。

ツェペシュはシギショアラの町に1431年に生まれ、コンスタンチノープルに留学中にビザンチン帝国が1453年に滅亡し,支配者となったオスマントルコのメフメト2 世の捕虜となった。やがて許されて帰国し、ワラキァ公国の支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣されてきた兵士を捕らえ生きたまま串刺しにしたことから「串刺し公」と綽名された。歴史上は敵国のトルコと勇敢に戦った名君として評価が高い。ドラキュラの名は彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から受けた「龍( ドラゴン) が彫られたメダル」に由来する。彼の父はドラゴンのメダルを授与されたことからドラクル又はドラキュラと呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。また「ドラク」はルーマニア語で「悪魔」を意味している。
「吸血鬼ドラキュラ」は彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家ブラム・ストーカーがヨーロッパに古くから伝わる吸血鬼伝説を組み合わせて怪奇小説に仕立てあげたもので、この作品の影響を受けてこのブラン城もいつしかドラキュラの城として一人歩きを始めたのである。

 ブラン城を見学後再びバスで今夜の宿泊地ブラショフへ向かった。

 ブラショフはルーマニア第二の都市で中世の町並みを残した美しい古都である。町は12世紀にドイツの商人によって建設され、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。閑静な佇まいのどことなく心の落ち着く感じがする町である。ここでは夕闇せまりかけた頃徒歩でスケイ門、黒の教会、聖ニコラエ教会等の外観見学をした。

 ルーマニアの最北部、ブコヴィナ地方の中心都市スチャバへ向けて出発した


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