| 2004年07月30日(金) |
【人類の至宝エルミタージュ美術館・・ロシア】 |
▼ロシアの旅 サンクト・ペテルブルグ 2000年10月15日〜10月25日
ヘルシンキ中央駅から6時半発のサンクトペテルブルグ行きシベリュウス号に乗るために駅裏口から入場した。戸外はまだ真っ暗である。プラットフォームまで乗り入れてきた自動車からポーターが荷物を列車内の網棚へ次々 に収めていく。スーツケースが網棚にずらりと並んだ光景は壮観であった。定刻になるとベルも鳴らずに列車は走りだした。
窓外は暗いが目をよく凝らしていると針葉樹の林が黒々としているのが次第に判別できるようになってきた。時計を見ると7時40分である。やっと空が白みだしたようである。8時だというのに霧が立ち込めているのかどんよりと薄暗くまるで太陽がでているという感じがない。通り過ぎる村落には心なしか哀愁が漂っているように見える。窓外に広がる景色は白樺や松、杉が入り交じった林ばかりである。たまに農家が散見されるが切り妻造りの木造家屋で小口の面には上方に一つと下方に三つ窓が設けられているのが多い。
フインランドとロシアとの国境線沿いの駅ヴァイニカラではロシアの係員が乗り込んできて顔写真と見比べながら一人一人パスポートを回収していく。同時に携行通貨を記入した書類をチェックしていく。入国時に携行していた通貨が出国時に増えていると問題になるらしい。外貨をロシア国内へ落としていけということなのか。長時間待たされた後、パスポーが返されやっと出発することが出来た。
国境を過ぎると今まで快調に走行していた電車は何故かそのスピードを落としてノロノロ運転に変わる。そしてペテルブルグ近郊に近づくと再び速度が上がる。添乗員が毎回同じことが繰り返されると言明しているから、今回だけの現象ではないらしい。理由はよく判らないと言うが、おそらく遙かな田舎の路線区までは十分な補修予算が廻らず、線路のメインテナンスが十分出来ていないので安全確保上スピードダウンしているのであろう。なにしろつい先日潜水艦の沈没事件を引き起こして世界の耳目を集めたばかりの国柄である。ペテルブルグ近郊の白樺林には立ち枯れになったためなのか何本もの倒木が醜い姿を晒しているのがそちこちに散見される。
ペトルブルグ駅には13時30分に到着した。この駅を改札のないまま表に出ると美しい町並みがいきなり目に飛び込んでくるが、よく見るとペンキが剥げたままになっていたり、壁が剥落したままになっている建物がかなり
目につく。通りを走行している市電やバス、自動車の車体が古くなって傷んでいるのも目について痛々しい。扉などは下方部分に赤錆がついていて、体裁とか乗客の乗り心地などには一切お構いなく、乗物は動きさえすれば運行させるのだという当局の管理姿勢が窺われる。
昼食には地酒を飲んでみようとウォッカを注文した。嬉しいことに米ドルが使えるという。ヘルシンキのレストランでは現地通貨しか使えなかったのに、ここではルーブルよりもむしろ米ドルのほうが喜ばれる。
そして何よりも驚いたのは、食事が終わりに近づくとウエイターやウエイトレスがポケットからキャビアの瓶詰めやマトリョーシカ人形等を取り出して勧めるのである。彼らは公務員の筈なのに悪びれた様子も見せず、また同僚に気兼ねすることもなく、堂々と販売活動を始めたのである。レストランが企業体の業務の一端として従業員に土産物の販売を命じているのか単なる従業員個人としての内職なのか判然としないがウエイターやウエイトレスから商品を売りつけられたのは、海外旅行をしていて初めての経験であった。
自国通貨よりもドルの方が喜ばれ、従業員が職場で内職をして平然としている国。大国ロシアという国は一体どうなっているのかという驚きの連続であった。
市場競争原理を導入した国の経済改革推進策の具体例の一つ、即ちレストランという経営体が組織ぐるみで展開している観光客に対する拡販運動であると信じたいが、そうだとすればお客の心理を全然理解していないこと甚だしいものがある。もしも彼等が販売しているキャビアが巷間噂される、調理場から横流しされたものであったとしたらこの国のモラルと職場規律は乱れに乱れているというしかない。
サンクト・ペトルブルグの町はロシアの皇帝ピョートル大帝が北方戦争(1700〜1721) でスウェーデンの侵略を防ぐためにフィンランド湾に面する低湿地に数万人の農奴を使って要塞の建設を始めたことがその紀元となっている。1703年にペトロパブロフスク要塞が完成するとともに町は完成した
ピョートル大帝は対スウェーデン戦に勝ってからバルト海への出口を確保するために、この地に港を建設し1712年に首都を移した。爾来「西方への窓」としてロシアと西欧を結び付ける役割を果たす政治、経済、文化の中心地として発展した。デカブリストの乱(1825) 、血の日曜日(1905) 、二月革命・十月革命(1917)等革命運動の中心地ともなった。 第二次世界大戦では3年余にわたる激戦の末ドイツ軍の攻囲を退けた。首都モスコーに対して現在も文化の中心地をもって任じている。
ピョートル大帝の宮殿

食後、市内観光で廻った所は次のようなものである。
一.イサク広場とイサク聖堂。 世界で三番目に大きな聖堂と言われていて、その大きさは長さ111.2 m幅97.6m、高さ97.6mで一万四千人を収容できる規模であるという。建築には1818年より40年間が費やされ、難工事であった。低湿地にこれだけの規模の建物を建てるのだから6mの長さの杭を新旧二万四千本が打ち込まれている。この教会は高さ三十階建てのビルにも相当し、金色に輝くドームとともにその威容を誇って屹立している。寺院正面の広場がイサク広場でこの広場の中央にはニコライ1世の馬上像が建っている。デカブリストの反乱を鎮圧して即位し秘密警察と過酷な刑罰をもって自由思想を弾圧し、ツァーリズムを強化した皇帝として知られている。
二.デカブリスト広場 ネヴァ川の左岸に黄色い旧海軍省の建物が建っていてその前にある広場がデカブリスト広場である。デカブリストとは12月党員という意味であり、1825年12月に専制政治と農奴制の廃止をめざして蜂起した革命家達のことであるが、蜂起の中心になったのは祖国戦争(対ナポレオン戦争のこと)に参加し西欧の自由思想にふれた貴族出身の青年将校達であった。以後ロシアにおける革命運動の出発点となる蜂起であった。蜂起はこの地とキエフでそれぞれ14日と28日に行われたがいずれも鎮圧され、579人が起訴され内五人が絞首刑となり残りはシベリアの地へ流刑となった。
三 スモーリヌイ修道院。
ネヴァ川河畔の一角に白色とコバルト色のツートンカラーの華麗でお洒落な装いの修道院と寄宿学校がある。この学校は19世紀始めにエカテリーナ2世によって貴族の令嬢達の女学校として建てられたものであるが、1917年十月革命の際には、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、10月25日ソビエット政権樹立宣言が行われた場所としても有名である。
四.マリインスキー劇場

通称マリインカと呼ばれているサンクト・ペテロブルグ随一のバレェ・オペラ劇場で、その名はモスコーのボリショイ劇場とともに世界に知られている。その紀元はこの場所にサーカス劇場が建てられたことから始まる。1859年の火災の後に再建された劇場は皇帝アレキサンドル2世の妻の名をとってマリインスキー劇場となった。淡い緑色と白色のツートンカラーの建物は美しい。ウエッジ・ウッドの焼き物で造った建物のようにさえ見える。
翌朝十時の出発でエルミタージュ美術館へ向かった。美術館は十時半の開館であるが門前には既に学童達が先生に引率されて賑やかに囀りながらたむろしていた。
国立エルミタージュ美術館

は冬宮、大エルミタージュ、小エルミタージュ 新エルミタージュ、そしてエルミタージュ劇場の五つの部分から構成されており、150年かかって完成された建築複合体である。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」という意味であるが、この建築複合体は元来、歴代皇帝の住まいであるとともに皇帝の私有美術館となっていたものを革命後国立美術館に転用し公開されたものである。
エルミタージュのコレクションは女帝エリザベータ

によって始められ、その後エカテリーナ2世は西欧から4,000 点以上もの絵画を買い集めたといわれている。現在のコレクションは三百万点に及ぶといわれ、展示は十部門に別れて展示されていて逸品揃いである。 限られた時間内に全コレクションを鑑賞することは到底不可能なので近代の西洋絵画に焦点を絞ってみて廻った。画家の名前だけを拾ってみても次のような豪華さである。
1)ルネッサンスの時代のシモーネ・マネチーニ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ビンチ、ジョルジョーネ、ティティアーノ、ラファエルロ等 2)フランドル派のルーベンス、フランス・スネイデル等。 3)オランダ派のヴァン・ダイク、ウイレム・ヘダ、ゲラルド・テルボルフ、ヤン・ステーン、フランス・メハルス、レンブラント等 4)スペイン派のエル・グレコ、フランチェスコ・スルバラン、ディエゴ・ ベラスケス、ハルトロメ・ムリリョ、フランシスコ・ゴヤ等 5)印象派のマネ、モネ、ピサロ、ルノアール、シスレー、ドガ等。 6)新印象派のスーラ、シニャック等。 7)後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等。 8)その他ピカソ、マチス
、
カンジンスキー等
与えられた僅か2時間ほどはあっという間に消えていた。しかしながら名作の数々に圧倒されて美術館を出たときにはどっと疲労感が体内を駆けめぐった駆け足で瞥見しただけに終わってしまったが、室内の装飾や天井の絵画室内に配置された贅を尽くした調度品の数々、豪華なシャンデリア等いずれもそれぞれに故事来歴のある逸品揃いでまさに人類の至宝を集めた、再度訪問してみたい魅力溢れる美術館であった。
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