前潟都窪の日記

2004年07月28日(水) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア�◆�

   フレンツェ、シエナ、ヴァチカン
 フレンツェで宿泊したホテルは市の郊外だったのでフレンツェ市内中心街まで暫くバスで移動したが、街道の両脇に生い茂っている笠松の並木が印象に残っている。

「総ての道はローマに通ず」という諺があるが今通っているこの道路もローマ帝国時代に作られたものであろう。総て石で舗装されている。ローマ人の統治の基本的な考え方を偲ぶ一つの文化遺産である。今でこそ日本の道路も田舎道までアスファルト舗装されているが戦後まもない頃は舗装のされていない道が過半であった。占領軍の某将校が「日本には道路予定地はあっても道路はない」と言ったという言葉の意味が思い出される。

 市内には市の条例でバスが乗り入れられないように規制されているので、指定の駐車場で下車してウフィツィー美術館へ向かった。通りに立ち並ぶメディチ家の居宅であったという豪壮な建物等に目を奪われながら歩いていくと通りの切れたところで、「オッ」「ワァッー」という感嘆の声が一様に上がった。大聖堂がいきなり視界に飛び込んできたのである。それは劇的な瞬間であった。

 フィレンツェ大聖堂




はここでもドーモと通称されているが正規の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)である。1296年アルノルフォ・ディ・カンピオが造営に着手し、ジョットー・A、ピサーノ・F、タレンティ・ブルネレスキらが次々と造営に関与して、1436年に完成した。高さ百七mの丸屋根はブルネレスキが施工し、「トスカナ全土を覆う」といわれた程の巨大さを誇った豪華な寺院建築である。堂内にはミケランジェロのピエタやウッチェロの絵等がある。

 今回の旅行の目玉の一つであるウフィッツィ美術館へ行った。
 ウフィッツィ美術館の起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ一世(1519〜74) の要請でトスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス( ウフィッツィ) のために[ 川沿いに空中に建つかのような] 二つの翼廊をもつ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。その五年後には同じくヴァザーリによって僅か数カ月で、ウフィッツィとメディチ家の住居ピッティ宮殿が繋がれ、ヴェッキオ橋の上を通ってサンタ・フェリチタ教会からボボリ庭園まで抜ける廊下が建設された。町の急所と最古の橋と権力の中枢を連結して階上を走るこのヴァザーリの廊下は世界で唯一の都市通路である。そこにはルネッサンス期のフレンツェを金融業で蓄えた豊富な資金を背景に独裁権力で牛耳ったメディチ家の面目躍如たるものを偲ぶことができる。

今日のウフィッツィは比類ない芸術遺産を誇っており、中世から現代に至る絵画や古典彫刻、細密画、タベストリー等所蔵作品は何千点を数える。ウフィッツィが優れた美術館であるのは、その見事な建築や数々の傑作によるばかりでなく、四世紀に及ぶ美術品収集の歴史が町の文化変遷と一体となって展開してきたからにほかならない。
 それはなによりもメディチ家を筆頭とする町の統治者達が美術品収集に熱意を注いできた結果である。

 ルネッサンス期の作品を重点的に鑑賞して回ったが印象強く記憶に残るのはボッチェリーの「ヴィーナス誕生」




「春」「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」




「東方三博士の礼拝」「キリスト洗礼」




ミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」、ラファエロの「自画像」
「ヒワの聖母」




「教皇レオ十世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチと枢機卿ルイジ・デ・ロッシ」、 ティツィアーノの 「フローラ」




「ウルビーノのヴィーナス」等であった。

 シニョリーア広場で見ることのできるミケランジェロの出世作「ダビデ像」




の彫刻や切り取った人間の首を手にかざす「ペルセウスの像」等も印象に残った。

 シエナの町への移動中にバスから眺めたトスカーナ地方の風物は印象に残る長閑で異国を感じる光景であった。それは、あまり高くもない丘陵状の畑がうねりながら、或いは重なり合いながら地平線の果てまで広がっているのである。糸杉が所々に立っていてこの光景にアクセントをつけている。畑は取り入れを終わって耕されたばかりのものもあれば、牧草が短く生えて緑色をしているものもある。放牧された牛の群れがのんびりと草を食んでいたりするといやがうえにも旅情をそそる。折から冬の短い太陽の日差しが我々の乗ったバスの影法師を大きく畑に写していくのである。

 黄昏近い頃やはり世界遺産に指定されているシエナの町へ到着した。ドウモを中心に広がった旧市街は小高い丘の上に纏まっており、バスから下車した位置から遠望するとここも都市国家であったことが一目で判る。

 サンタ・バルバラの要塞、カンポ広場
、



大聖堂等を見学した。
 大聖堂は千二百年代に建築家ジョバンニ・ピッサーニによって建設されマリアのために捧げられたゴシック様式とロマネスク様式の見られる教会である。一見して特徴的なのは建物に横縞模様が取り入れられており、アラビアの影響が入っていることである。このような様式をピサ様式というとのことである。
 シエナ人はプライドが高く、フレンチェへの対抗意識が強くフレンチェの大聖堂よりも大きなものに建て替えようと計画したが、黒死病の蔓延で計画は頓挫し、外壁と建設予定地だけは当時のまま残っていて現在は駐車場に転用されている。
 シエナは創設時から銀行業で成り立っている町で現在も市民の半数以上が銀行に係わる仕事に従事しているという。またシエナに本店を置く銀行は海外のどの支店であっても必ず一人はシエナ人を派遣している。
 早朝シエナのホテルをバスで出発し、230kmを長駆して一路ヴァチカンへ向かった。ヴァチカン美術館の圧巻は何といってもシスティーナ礼拝堂である。
 特にミケランジェロがユリウス二世(在位1530〜1513) の依頼を受けて25年以上の歳月をかけて完成させた天井画は壁面に積もったほこりと油煙を洗浄する修復作業が1980年に開始され、最近終了したばかりでその鮮やかな色彩を回復していた。
この天井画は中央に創世記の九つのエピソードを描いている。即ち「闇と光の分離」「太陽と月の創造」




「大地と水の分離」「アダムの創造」「エヴァの創造」




「原罪と楽園追放」「ノアの泥酔」「大洪水」




「ノアの燔祭」がそれである。
 九つの創世記物語を取り囲んで八つの三角枠にはマタイによる福音書に則って、キリストの祖先達が描かれ、四つ角の扇型の枠の中には「ユディットとホロフェルネ ス」(ユディット記)、「ダビデとゴリアテ」(サムエル記),「青銅の蛇」(民数記)、「ハマンの懲らしめ」(エステル記)が描かれている。
 天井を仰ぎみていると首が痛くなるのだが、痛さを我慢して暫く見とれていた。
 祭壇側の壁面には「最後の審判」




の大壁画が飾られている。

  これは天井画を完成させてから20年以上も後の1536年に制作を開始し1541年に完成させたものであるが、制作を開始した時ミケランジェロは60才の老齢であった。
殆ど四百人近い人々がうごめくこの壮大な構図の中心は、審判者キリストの姿であり、その周囲を構図全体が回転しているように見える。キリストの隣にいる聖母だけが、苦しみを甘受するポーズで、すべての人を巻き込んで動いている上昇と下降の渦巻き運動から免れているように見える。鑑賞者を圧倒してやまない傑作である。
 署名の間に飾られているラファエロの「聖体の論議」「枢要徳と対神徳」「アテネの学堂」「パルナッソス山」、ヘリオドロスの間のラファエロ作「ペテロの解放」等もルネッサンスの巨匠の作だけに見飽きぬものであった。
 ヴァチカン美術館でこのほかに印象に残っているのはタベストリーのギャラリーに展示されていた




「復活」と題するラファエロの新工房作のタベストリーである。これは中央に右手を上げて立つキリストの左足の爪先と視線が鑑賞者が移動するにつれて向きを変えて追っかけてくる現象であった。タベストリーの糸目の起伏が光線の反射と相まって作り出す物理学的には説明可能な現象なのであろうが、神秘的な神の意志のようなものを感じて慄然としたのを覚えている。


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