加藤のメモ的日記
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2015年05月27日(水) 本音を務申せば

東京大空襲70年

1845年3月10日の東京大空襲から70年になる。3月10日というが、正確には3月9日から10日に入ったときである。ボーイングB29が334機、東京上空に入った。日本橋、本所、深川、浅草などが焼き払われたが、死者10万人という数ははっきりしない。もっと多いのではないか。3月10日は陸軍記念日である。これを一つのタイミングとして東京からの疎開児童はおのおの帰京する予定だった。それぞれ中学校への入試があったのだ。

10日の早朝、帰京は打ち切りになった。これから各家庭の父兄が引き取りに来るという。引き取りに来ない家は全滅か、それに近い状態で教師は言わなかったが、その家の子供は孤児になるわけだ。ぼくがいたのは埼玉で、東京の赤い空が見えた。引き上げ延期と聞いて、身体が畳に吸い込まれてゆくようだった。

それでも、僕らは不幸中の幸いだった。東北に疎開した者は早く起きて列車に乗った。東京に近づいたとき何が起ったのかが明らかになった。焼け跡に行ってみると今、どこどこにいるという父親の文字が黒い柱にひるがえっていた。そうした身内のない家の子供はそのままになった。浮浪児は上野の山に集まった。

3月末に僕は父親に連れられて、上野から上越の町に向かった。町は深い雪に埋もれていた。父や母がどうして助かったのか、僕はわからなかった。あえて訊こうともしなかった。父は明治座の地下で蒸し焼きになった人々を発見したという。その前に、父は隅田川の向こう側から富んでくる火の玉を避けるために、敷き布団をかぶって川の中にいたとも言うのだが、川で溺れないかと気になった。気にはなったがそれ以上詳しいことは訊けなかった。

おそらく川の中にいて、火の玉がおさまってから明治座に行ったのだろう。いろいろな役員をつとめている父親は、消防団(?)のトップとしての役を果たしたのだ。火災と風の流れは刻々変わるし四方から火災が迫ってくることもあったらしい。何年か前に墨田区のすみだ郷土文化資料館に当時子供だった人々の描いた空襲の絵を見に行き、とても耐えられなかった。燃えている牛を大人が食べようとしている絵もあった。

それらは主として言問橋(ことといばし)や亀戸付近の絵だったが僕はアメリカに対して心から腹を立てた。今年はすみだ郷土文化資料館で<企画展/東京大空襲・70年>が5月17日まで行なわれているから、お近くの方は寄ってみるといい。戦争という者は、こうした地図・写真・体験画を見ない限り、わからなくなっている。この企画はおそろしく手をかけた者だから見に値すると思う。



『週刊文春』5.27


加藤  |MAIL