加藤のメモ的日記
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2015年02月23日(月) ソフィーの選択

子供のうち、一人は助けてやる。さあ、どちらにする?

アウシュビッツの強制収容所の前で、酔っぱらったナチス親衛隊の軍医臥が殺すか、助けるかの「選別」を行なっている。幼い息子と娘の二人の手を引いた母親のソフィーに向かって軍医が言った。「子供のうち一人は残してよろしい」「えっ?」とソフィー。「子供のうち一人は残してよろしい」と軍医は繰り返した。「もう一人は行かなきゃならん。どちらを残す?」ソフィーの思考過程がしぼみ、停止した。脚がヘナヘナと崩れるのを感じた。「選べません!あたし、選べません!」ソフィーは泣き叫び始めた。

軍医は「黙れ!」とめいれいする。「さあ、さっさと選択しろ。ちきしょうめ、しないんなら二人とのあっちにやるぞ。急ぐんだ!」か細い娘エヴァの泣き声を聞いたソフィーは叫んだ。「この子をとって!あたしの女の子を連れて行って!」娘は、死を待つ人々の方へ連れて行かれた。その子は、絶えずふりかえり続けた。

アメリカの作家W・スタイロンの小説『ソフィーの選択』(大浦暁生訳、新潮社)の中の、このような衝撃的な場面を引用して、『責任と虚構』(小坂敏晶著、東京大学出版会)という著作の第二章「死刑と責任転嫁」はこう語る。この状況でソフィーに与えられたのは二つの可能性しかない。どちらかの子を犠牲にして、一人を救う道か、選択自体を拒否して、子供が二人ともガス室で殺されるかだ。

ソフィーは選択をし、一人を救った。、娘の死の責任を自ら背負ってしまった母は、一生、凄まじい良心の呵責にさいなまされる。ところが我々の社会の死刑制度には、「ソフィー」は存在しない。死を与える直接の責任の所在が分かりにくい、という巧妙な「分業」で成立しているのである。もちろん、執行する現場の人々は、凄まじい精神的負担を強いているのだけれど。

複雑深遠な小説と小坂井さんの重大な問題提起に、お詫びしながら僕は勝手に「責任:」と「責任転嫁」の問題を、戦争、テロなどにまで広げて愚考するのだ。「国のため」とか「神のため」というのも広い意味では責任転嫁ではないか。同法二人の死もまた、テロと戦う、という大義名分に責任転嫁した政治・外交の犠牲なのだ。


人生のことば


『週刊現代』2.28


加藤  |MAIL