加藤のメモ的日記
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2014年08月17日(日) 憲法解釈は私が決める

選挙に勝ちさえすれば憲法解釈も思いのまま。集団的自衛権をめぐるそんな安倍首相の国会答弁に、自民党や改憲を主張する学者、内閣法制局長官経験者などからも大きな批判の声が上がっている。

歴代内閣の「日本国憲法のもとでは、集団的自衛権の行使は認められない」とする憲法解釈を改めようとする安倍首相。集団的自衛権を行使し、日本が攻撃されていないときでも海外でアメリカと肩を並べて戦争ができる国にしようとしている。

憲法解釈は「政府が自由に変更することができるという性質のものではない」というのが歴代政府の見解である。ところが安倍首相はこれに背いて「政府の最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って…」(2014 2月12日、衆院予算委員会)と挑戦してきた。これには自民党総務会でも「その時々の政権が解釈を変更できることになる」(村上誠一郎元行革担当相)などと批判が相次いだ。

自民党の古賀誠元関助長も「立憲国として、とても考えられない」「普通だったら、予算委員会が止まるほどの大騒動」(16日の民放テレビ)内閣法制局長経験者も「選挙に勝てば法解釈は自由だということになれば、法律も裁判所も意味を持ちません。そんな国は世界にない」と。日本共産党の志位委員長は記者会見で「憲法の最高規範性を否定し、国家権力を縛るという立憲主義を乱暴に否定するもの。このような乱暴な憲法破壊論は絶対に許されない」

『週刊朝日』2.23

改憲論者の私も怒りを覚える 権力者のクーデター

私は憲法改正論者で、集団的自衛権の行使も認めるべきだと考えている。しかし、今回の安倍首相の解釈改憲論はあまりにも乱暴であり、怒りを覚えている。「集団的自衛権を解禁するということは、同盟国が戦争に巻き込まれた場合、無条件に助けに行くことを認めることである。このようなことが「間違っても海外派兵はしない」という趣旨で制定・運用されてきた憲法9条の下で認められるはずはない。それを首相の責任で解禁するなどという発想は、そもそも首相の権限(責任)の範囲を超えており、法の支配、立憲主義を無視する暴挙である。

昨年の「96条先行改正論」、今年の「集団的自衛権解釈解禁論」はいずれも、政府の独断で憲法を迂回しようとする、憲法無視の姿勢で一貫している。早く退陣させなければならない。今回の「集団的自衛権解釈解禁」では何よりも、安倍首相の憲法観が問題である。自民党の2012年の改憲草案では、憲法尊重擁護義務を、現行の「公務員」から「全国民」に広げた。これは、もともと国民大衆が権力を規律する規範である憲法を、権力者が国民を統制する違反に逆転することで、いわば権力者がわからのクーデターに等しいのである。

首相は「憲法とは国家権力を縛るものだという考え方は、王権が絶対権力を持っていた時代の考え方だ」というが、それは、近代憲法の成立過程、立憲主義を知らない決定的な間違いである。王権が絶対的な権力を持っていた時代には、王権はその背後に神が存在することを根拠に、一切の法的規制を受けていなかった。だから絶対なのである。ヨーロッパでは、近代市民革命で民主化された後、本来的に不完全な存在である人間が預かる権力が乱用されないよう枠をはめるために憲法という法領域が生み出され、今日に至っている。

近代以降の民主国家では、権力者が権力を恣意的に乱用することがないようにするために、主権者国民の最高意思として憲法を定め、それを権力者に対する行動の枠として与えた。これは単純な多数決で越えてはならないものである。

抽象的に書かれている条文には、当然に解釈の幅がある。そのため日本では、国会が法律を制定する際、利害の調整が優先される政治の場で憲法が軽んじられないよう、衆参両院にそれぞれに法制局が設置され、議員たちに対して専門的な助言を行なってきた。同様に、内閣にも法制局が設置されている。内閣の仕事の範囲内で憲法解釈を定め、変更する場合の形式的な責任者は首相であることは当然だが、その決定過程で法制局の専門的助言を真摯に効くべきことも当然である。

慶応大学教授 小林 節

『週刊朝日』2.23


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