加藤のメモ的日記
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2014年04月27日(日) ブックレビュー 

『写字室の旅』ポール・オースター

真っ白な部屋の中で老人は心の旅に出る。米国を代表する作家が描いた「老いと人生」

人生において、命が最も輝く時期はいつか。青春時代だろうか。だが老年もまだ捨てたものではない、と本書を通してオースターは語る。いや、むしろできることが少なくなった老年においてこそ、生の炎は鮮烈な光を放つのだ。主人公はミスター・ブランク、「空白さん」である。空白だから、そこには誰もが入り得る。舞台は壁が白く塗られた小部屋で、彼は最後まで外に出られない。

老人である彼には、ここに閉じ込められている理由も、自分が誰かもわからない。だがそれでも彼は人生を楽しみ続ける。床をスケートリンクに見立てて靴下で滑りまわり、弱った足腰でなんとかトイレを使う。もちろん床に転んだり盛大に小便を漏らしたりするが、彼は諦めない。それだけではない。過去の断片的な記憶や不可解な訪問者が次々と小部屋を訪れ、彼の精神は広大な領域を旅する。言うなれば、彼が今までに読み、思い浮かべ、書きつけた言葉でこのお部屋は満ちている。だからこそ『写字室の旅』なのだ。

この作品をオースターは、20年後の自分を描いた自伝として書いたらしい。どういうことか。作中で主人公が読む作品がヒントとなる。帝国と番族が闘うもう一つのアメリカの物語の著者はトラウズ(Trause)と呼ばれる。そしてミスター・ブランクは突然、堰を切ったように作品の続きを語り始めるのだ。ならば彼はトラウズなのか。ふと、トラウズの綴りを入れ替えると(Auster)になることに気づいた我々は呆然とする。しかも訪問者の全員が登場しているのだ。これは偽装された自伝なのか。それとも圧縮されたオースター全集なのか。

その両方が正解だろう。作家は小さな神として作品世界の人々を生かし殺す。だが、作家自身の人生にもいつか終わりがくる。トラウズの小説の主人公は捕えられ、彼を殺す権限を持つ大佐に牢獄で報告書を書きながら思う。「私にできるのはただ一つ、自分の話を語ることだけだ」。この姿はそのまま、見えない読者に向かって言葉を紡ぎ続ける作家そのものではないか。あるいはそれは、不可解な裁きの神の前に立たされた我々の姿なのかもしれない。

オースターの作品は貧しさの美学と物語的な豊饒さで愛されてきた。本書でも、その両方の魅力を読者は存分に味わえるだろう。


『週刊現代』4.26


加藤  |MAIL