加藤のメモ的日記
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2014年01月27日(月) 風塵の街から

読むことの意味

文章の力が足りないという点では、私は、やはり読書が足りないのではないか、という危惧を感じました。思念を過不足なく表現するほどの文章を書けるためには、「書く」という行為がもちろん必要です。「書く」ことを通して文章が練られ文章が文体として確立してゆくのは事実です。作文が課され、文章の規範が求められるのも「書く」という実践によって自得される部分が多いからです。志賀直哉の小説の一部を筆写してみたり、好きな外国作家の作品を翻訳してみたりして、文章を磨いた小説家を私も知っております。書き慣れた文章はたしかに素人の文章とは違います。論旨の展開や用語の適切さのほかに、一種の自在さ、ファシリテ(熟練)と呼ぶべきものがあります。

しかし同時に、そうした文章が悪達者になる危険を持つことを、考えておく必要があります。悪達者につきものなのは、外見の巧みさに比べて内容が乏しいということです。日本ではよく文章道などといわれ、「書く」ことだけに心を砕く伝統がありますが、もしそれが内から書く必然に促されていない場合、ただ達者な文章の書き手をつくるだけの結果になりかねません。この種の体験的なやり方には、「書く」ことに対する批評的な意識も生まれませんし、方法的な意図も生ずる余地がありません。

私は「書く」という実践の必要を認めた上で、あえて「読む」ことの必要を強調したいのはそのためです。それも、ただ人並みに読むのではなく、むさぼるように多読することを望みたいのです。一時は映像時代といって人々が文字より映像を信じもし、好んだかに見えた時代がありました。現在もかなりの人々がその残滓の中に生きておりますし、今後はむしろ映像の方が強力になると、いまなお、たとえばテレビなどを例にして主張する人もおります。私はそうした意見や傾向に異を唱える気もありませんし、そう信じているのも勝手だと思っておりますが、ただ、人間が言葉を失っては生きえない存在だというどうしようもない事実は、そんなことによって覆りもせず、覆すこともできないということだけは、言っておきたい気がします。

人間の現実が言葉によってつくられ、また言葉によって破壊されるという事実を、私は戦中戦後の生活を通して、深く思い知らされてきました。サルトルはある著作の中で、こうした事実をスタンダールの『パルムの僧院』中の言葉によって説明しています。それは主人公のファブリスがサンセヴェリーナ夫人を愛しているのですが、ファブリスはそれが恋であるとは気がついていないのです。「もし誰かがそれが恋であると言ったら、二人の間には恋が生まれただろう」とスタンダールは書くのです。ものを名づけるという行為は、創世記にあるように、ものを存在させることです。ものに名がつけられることによってそのものが人間の現実となるのです。それは言葉によって人間の現実がつくられることに他なりません。

「読む」ということは、とくに小説を読むことは、こうして、単に架空の、当てにならぬものに触れることではなく、ある意味では、日常生活以上に濃く重い現実性の中へ入り込むことなのです。私たちの制約された狭い日常の枠の外に、想像力という手段によって脱出し、多様な生の可能性を生きること―それが小説を読むことの本当の意味なのです。私たちはそれによって自分の狭さと同時に自分という一回きりの生の貴重さを見いだしてゆきます。

「読む」ことによって、それは何も小説や詩だけに限られません。豊かになった精神が、内からの促しによって、何かを表現したいと思うとき、それは、たとえ特別な「書く」修行をしていない場合でも、十分に読むにたえる文章を書きうるものです。なぜなら文章とは常に思念(イデー)を表すものだからです。思念が豊かであればあるだけ、文章は透明となり、思念そのものが、全く媒体なしに私たちに伝わってくるような気にさせられるものです。私はそうした真の豊かさに達するまで、何かが溢れ出そうになるまで、読みに読んで頂きたいと思います。読むことは考えることであり、考えることは生活の内容を豊かにすることです。しかしそのことを除いては、現代の精神的な混乱を切りひらく道もないのではないか、―それが現在の私の本当の気持ちです。


『風塵の街から』 辻邦生


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