加藤のメモ的日記
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2013年11月27日(水) 巨悪vs言論

52席の傍聴席に対して傍聴希望者は3904名にも達し、日比谷公園まで続く長い長い行列になった。私は家族、友人、知人、アルバイトを動員して225人の一人に並んでもらい、早い当たり券を確保して、最前列の席に着くことができた。有罪判決を受けた後、本来なら実刑有罪被告は直ちに収監されるはずなのに、田中は別室に通されて、秘書や弁護団と昼食をゆっくり食べながら、再保釈決定が出るのを待つという特別扱いを受けた。3億円の保釈金を払って再保釈されると、田中はパトカーの警備付きでフルスピードで目白の私邸に戻った。私邸には、田中派の議員が60人以上も集まっていて、「暴力団の親分の仮出所祝いそっくり」といわれた光景が繰り広げられた。

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それはまことに奇妙な風景だった。「なんだい、こりゃ、まるっきり、ヤクザの集団だね」私と一緒にテレビを見ていた男がつぶやいた。10月12日、有罪判決を受けて帰宅した田中を、目白の私邸で待ち受けていて激励した田中軍団の面々が、門からゾロゾロでてきたところである。あまり人相のよくない金バッジをつけた男たちが何十人も娚集して、それぞれにふんぞり返りながら、亡弱無人に振る舞っている様は、正しくヤクザのそれだった。

この日、田中邸ではもっと異様な光景が何度か繰り返された。同じ顔ぶれの男たちが、朝、裁判所に向かおうとする田中を囲み、握手をして、歓声を上げ、拍手喝采で送り出し、帰宅の時も同じことが繰り返された。ヤクザの親分の送り迎えと同じである。田中の政治支配がなぜいつまでも続くのか。答えは簡単明瞭である。田中派という集団が存在するからである。田中派が政権党の内部で最大派閥として存在するからである。

「田中が右といえば右、左といえば左に行くのが田中軍団だ」と臆面もなく幹部が定義する集団が、田中の下で結束を保っている限り、田中問題の解決はない。今一番大切なことは、田中問題を田中派問題としてとらえ直すことである。田中派という政治集団の存在そのもを問うことである。田中派は政治社会における無頼の徒である。ヤクザである。ゴロツキである。私が、彼らをかくも罵倒するのは彼らが政治社会の規範をとことん踏みにじって、恬然として恥じることが全くないからである。

そもそも、一つの公党の内部に、党外の人間を指導者として仰ぐ集団が形成され、それが増殖していって、ついには公党へのヘゲモニーを掌握してしまうなどということは、政党政治にあってはならないことである。事態がそこまでいったら、これは党外指導勢力による公党の乗っ取りであるといってよい。現在の自民党と田中派の関係はまさにそれである。

実は、このようなことは、政治の世界では前例がないことではない。ポルシェビキは意識的にこのような戦術を採用し、政党や大衆団体の指導部の中に強固なフラクションを作り上げることによって、これを内部から支配した。世界各国で左翼過激派、時には右翼過激派もがこの戦術を採用したため、似たようなことは時々起こった。田中派の自民党乗っ取りも、結果的にはこれと同じ戦術を踏襲したことになる。もちろん彼らは、目的意識的にそうしたわけではない。

もし田中派が一定のイデオロギー集団であり、そのイデオロギー実現のために政権党を内部から乗っ取ろうとしているのであれば、誰でもことの異常さ、現状況の危機的事態にすぐ気がつくだろう。気がつくと同時に、まだしも多少は救われる気がするだろう。イデオロギー集団であれば、彼らが少なくとも政治に志を持ち、その志を実現しようとしている集団であることがわかるからだ。

しかし、田中派はイデオロギーなどという高尚なものとは全く無縁な集団である。では、田中派は何を核に結集しているのか。田中自身がある中曽根派代議士に語った言葉によれば、「結局、うちの奴らは、金とポストが欲しいだけなんだ」ということである。それを聞いて、田中というのは、やはりただのネズミではないと思った。田中派の議員たちの心の卑しさをちゃんと見抜いているのである。心の卑しさこそが田中派の結集力の根源にあることを見抜いているのである。田中の力を借りることによって、何らかの欲望を実現したいと思う人々が田中の下にすり寄ってくる。田中はそれを実現してやる代わりに自分への忠誠を要求する。

若き日のイエスが荒野で40日40夜さまよいながら、悪夢の三つの誘惑に会うエピソードが聖書に記されている。悪魔の三つ目の誘惑は、「ひれ伏して我を拝め。そうすれば、この世でおまえが欲するものを何でも与えてやろう」というものだった。田中と田中派の関係は、この悪魔との誘惑に負けた人の関係に似ている。イエスの答えは「サタンよ、しりぞけ」だったが、田中派の人々は、田中の前にひれ伏すことによって、自分の欲望を実現する道を選んだのである。

田中のほうでは、彼らの支持を得ることで自分の政治力を維持し、あわよくば、政治力によって自分の裁判をひっくり返そうとしている。田中もときに政治を語り、政策を語るが、それはポーズだけで、実際には田中の側近が語るように、この7年間ずっと「田中の頭の中は裁判のことでいっぱい」なのである。政治力の増殖をはかってきたのも、裁判政策である。両者の関係に高尚なものは何もない。両者の間の根底にあるものは、要するに、邪な欲望でしかない。そういう人的結合の集団にょって日本の国政が牛耳られているというのは、まことに悲しむべきことである。かって、これほど卑しい動機に根ざした集団が一国の政治を支配したことがあっただろうか。

10月12日の判決で、一番印象的だったのは、田中の犯した犯罪の「社会に及ぼした病理的影響の大きさは計り知れないものがある」という一説だった。裁判官は、ロッキード事件以後の日本の社会が、今なお、事件の病理的影響下にあると見ているわけだ。病理をもたらしたのは田中角栄という病原菌である。このバイキンに感染すると、善と悪、正と不正の間のけじめがつかなくなるという症状を呈する。田中派の議員たちは、この感染症の重度の患者たちである。軽度の患者は、街でテレビのリポーターにマイクを向けられて、「田中さんだけが悪いんじゃないんじゃないですか。みんな同じなんじゃないですか」などというしたり顔の田中擁護論を早口にしゃべって足早に立ち去る田中支持者たちである。

判決の後、田中は「所感」なるものを発表した。その中で田中は、自分の潔白を宣言した上で、自分は「国民から全面的な付託を受けた身である」から「生ある限り、国民の支持と理解のある限り」国会議員を辞めないと述べ、さらに「我が国の民主主義を守り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」と「不退転の決意」を表明した。

これにはさすがの自民党内部からも、「田中は頭がおかしくなったのではないか」という声が出た。客観的にいえば、田中に負託を与えているのは、新潟3区の有権者の25%程度の人だけであり、これは全国有権者のわずか0.16%にしかならないのである。それを「国民から全面的な負託」というのは、いくら何でも吹きすぎである。また、あらゆる世論調査によれば、ほぼ8割の国民が田中に対して「支持」も「理解」も与えていない。多くの人が、田中の政治支配こそが、「政治の暗黒」であり、田中が議員を辞め、政界から引退することこそが、「民主主義を守る」ために必要だと考えている。この田中の「所感」ぐらい、客観的事実をねじ曲げて論拠とした発言も珍しいのではないか。病原菌の本体ともなると、このくらい善悪、正不正を取り違えてしまうのである。


『巨悪vs言論』 立花隆


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