加藤のメモ的日記
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安倍晋三首相は経済最優先の姿勢を示す一方で、宿願の憲法改正に向けた取り組みは先送りする意向を表明した。その陰で今年秋にも、政府の憲法解釈ににより「違憲」としてきた集団的自衛権の行使の容認に踏み切ろうと目論んでいる。集団的自衛権とは、自国が攻撃されていなくても密接な関係がある国家を武力で守る権利で、要は他国の戦争に加担することである。
これを官僚サイドで主導するのが、兼原官房副長官補だ。外務官僚で第一次安倍内閣時の2006年、当時の麻生太郎外相が発表した新外交戦略「自由と繁栄の弧」構想のブレーンである。この真の狙いは、中国封じ込めである。2回目の登板となった安倍首相は東南アジア諸国などを歴訪し、この戦略を体現すると同時に、自衛隊の敵基地攻撃能力の保持も推し進めている。
安倍首相の意向を踏まえ、兼原氏が米国や防衛省・自衛隊の調整を牽制するが、その反応は芳しくない。とりわけ米国はタカ派の安倍政権にナショナリズムの危険性を察知しており、知日派は「米国との詰めた議論がないまま、集団的自衛権の行使容認の動きが進むことは同盟管理の失敗だ」と言い切る。
防衛省幹部も「米国が積極的に歓迎しない現状で先走るのは危うい」と不安を隠さない。自衛隊関係者は「どのような攻撃力を持つのか、これまで矛の役割を担ってきた米国との緊密なすり合わせが不可欠だが、それが欠落している。敵基地攻撃能力を保有すれば、他の装備を削らなけらばならないが、この調整も手づかずだ」と打ち明ける。理念先行の首相官邸の防衛戦略は、自ら気づかぬまま孤立しているようだ。
反核ムーブメントの隆盛
空前の盛り上がりだった。3万人もが参加した。1982年8月5日、原水禁世界大会である。原水禁とは、原爆・水爆の禁止、核兵器廃絶を訴えるムーブメントのこと。原爆投下から10年後の1955年、広島で第一回原水禁世界大会が開催された。前年の1954年はビキニ環礁でアメリカによる水爆実験が実施された。第5福竜丸の乗組員らが被曝する。原子力怪獣『ゴジラ』も覚醒した。その後、毎年、広島、長崎の原爆記念日の8月6日、9日前後に原水禁世界大会は開かれている。
とはいえ、すんなりとは持続開催されたわけではない。1963年の第9回世界大会は主催団体が原水禁と原水協に分かれて対立、分裂開催となった。平和運動の内実が平和なものではなく、反核ムーブメントの中核が核分裂してしまったとは皮肉なものだ。ときは政治の季節の1960年代。諸党派、労働団体、学生運動組織ら各セクトが入り乱れて、街頭デモでゲバ棒、投石と騒然となった。反核運動の内部でも共産党系、社会党系と党派対立が激化した。その背後にはソ連や中国といった社会主義大国のパワーコントロールが存在したものともいわれる。分裂した原水禁がふたたび統一世界大会を開くのは、14年後、1977年のことだった。
1982年の原水禁世界大会が異様な盛り上がりを見せたのには、理由がある。前年、ライシャワー元駐日アメリカ大使が、米軍母艦に核兵器を搭載していた事実を認めた。明白な非核三原則違反だ!日本中が騒然となった。原水禁のみではない。各種の市民団体が反核をアピールする。作家・中野孝治らを中心に文学社が賛同署名、24万人もの署名が集まった。
1982年5月、国連軍縮総会への東京行動には40万人が参加し、異議を唱えたのが思想家・吉本隆明だ。反核運動の背後には対米・ソ連の操作がある。『「反核」異論』を出版した吉本は、多数の作家たちにケンカを売って、大激論となった。それからおよそ30年後、2012年春、吉本隆明死去、87歳だった。前年の福島原発事故で盛り上がる反核運動に対して「反核はサルになる」と批判した。生涯”反・反”を貫いた。
『週刊現代』8.17
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