加藤のメモ的日記
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天皇裕仁と中国侵略戦争
天皇は張作霖爆破を咎めない
天皇裕仁の日本国統治の歴史は、日本による中国侵略戦争の不断の拡大の歴史である。彼がまだ摂生であった1925年12月、中国東北地方(満州)を支配する軍閥張作霖が、部下の郭松齢の反乱によって打倒されそうになった。その当時日本は、張を日本の満州侵略の支柱としていたので、関東軍(南満州駐屯している日本軍)は、張を守るために、「中立」を装いながら実は、郭軍に圧迫を加えた。さらに12月15日、日本政府は摂政裕仁に、日本国および植民地朝鮮から、合計3500名の兵を満州に派遣する許可を求めた。裕仁はそれを許可した。このような日本の圧力によって、郭軍は敗北させられ、張の地位は守られ、日本の南満州に対する侵略行為はいっそう強化された。
1925年12月、大正天皇が病死し、裕仁は天皇になった。その当時中国では、蒋介石を総司令とする国民革命軍が、各地に割拠する軍閥を打倒し、全国を統一するための戦争を、勝利のうちに進めていた。日本政府はこの戦争によって脅かされている中国在留日本人の生命財産の安全を守るという口実で、、中国側の抗議を無視して、1927年5月、7月、翌28年4月、5月の4回にわたって、2.000人ないし一個師団の兵を山東省に派遣した。最多数時には合計1万5000名の兵がいた。いずれの場合も、政府の申し出により、天皇裕仁が出兵を命じたのである。
日本の出兵は当然、中国政府、および人民の激しい抗議を巻き起こした。満州を本拠とする軍閥張作霖は、これまで久しく日本の指示に頼り、日本の内密の指揮に従っていたが、彼でさえ、もはや日本の意のままには行動しなくなった。そこで前に述べたように、関東軍の将校の一部は、軍の工兵を使用して、1928年6月、張作霖の乗っていた列車を爆破して彼を殺した。政府と軍部は、日本国民及び諸外国に対し、事件の真相を隠し、日本軍人は事件に何ら関係もないといい続けた。
この事件に関連して、首相田中義一が天皇裕仁の信任を失い、辞職した。注意すべきことは、天皇は、関東軍将校が不法にも張作霖を殺したことを怒り、田中の責任を問うたのではなく、また田中が真相を対外的に隠すのを怒ったのでもなく、たんに嘘の発表の責任が裕仁に帰する結果になるようなことを、田中が上奏したのを怒ったのである。このことについて、田中の辞職のあとで、天皇は侍従長鈴木貫太郎に次のように語っている。
「もし田中総理が、事件に日本軍は無関係であると対外的に発表しておいて、その後に、天皇に対して『政治上よぎなくこのように発表しました。前回の報告と異なったことを申し上げて、申し訳ありません。それゆえ、辞職を請います』と言ったら、天皇は『それは(事件を曲げて発表したこと)政治家としてやむを得ないだろう』と言って、(嘘の発表を)許したであろう。ところが田中は、嘘の発表そのものの許可を請うた。それを許可すれば『予(天皇)は臣民に作りを言わざるを得ないこととなるだろう』、だから許可しなかった」。
鈴木は天皇のこの話を、1933年6月ごろ、新任の侍従長長本庄繁に語り、本庄はそれを極秘メモに書き留めている。天皇のこの話は、彼がきわめて老獪な「政治家」であることを示している。彼は彼自身が「臣民」に嘘をつくことにならないように政府が行動しさえすれば、政府が臣民及び外国を欺くことを咎めはしない、というのである。そして田中辞職後も、天皇は真相を発表し、下手人を処罰するよう政府に命令はしなかった。犯人は、警備不行き届きとの理由で、現役を退かせられただけである。しかもこの犯人は、その後まもなく、南満州鉄道会社(日本が、満州を搾取し、支配するための軍事的経済的大動脈である南満州鉄道を経営する国策会社)の理事となり、満州侵略に積極的役割を果たし続けた。
関東軍・朝鮮軍の独断戦争を承認
中国を侵略するためならば、軍人が統帥を乱して勝手にどのような陰謀を行なっても、処罰されないという前例が、ここに、政府・軍部のみならず天皇裕仁自身によっても、つくられた。これによって中国侵略の機会をつくろうとする軍人たちは、安心してその謀略にふけることができた。
関東軍の参謀たちは、東京の参謀本部及び陸軍省にいる仲間たちと密接に連絡して、満州攻略の計画を綿密につくりあげた。彼らは、1931年9月18日、奉天(瀋陽)近くの柳条溝で、南満州鉄道線路を爆破し、それを中国軍の仕業であるとでっち上げ、即座に付近の中国軍に戦争を仕掛け、たちまち奉天全市を占領するとともに、全満州占領の軍事行動を起こした。
『天皇の戦争責任』 井上清・京都大学教授
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