加藤のメモ的日記
DiaryINDEXpastwill


2013年05月27日(月) 日本の戦争はなんだったか

日本軍は、泰天省東南部の作戦、旅順半島の作戦、遼河平原の作戦、山東半島の作戦と直隷大決戦準備の戦いを進めました。そして、南満州から遼東半島にわたる要地をむすんで占領しました。

国際的な大事件になった旅順虐殺事件

この間、日本軍は1894年11月には、国際的な大問題になった「市民皆殺し」の旅順虐殺事件を引き起こしました。今日、この事件について知る人がごく限られていることもあり、日清戦争を平気で「文明の戦争」などと美化する風潮がありますが、その虐殺の惨状は、当時新聞その他で放送されています。

「路上の屍、旅順各街至る所に死屍横たはる間々身首異にしせしものあり、半ば首の切れたるあり、脳味噌の溢出せしものあり、腸の露出せしものあり、眼球の飛び出せしものあり、その他手足切れ足砕け粘々たる血液の上に斃死せす様実に一見毛髪の焦立するを覚ゆ」(「東京日日新聞」1894年12月7日)旅順虐殺事件は、外国特派員によって「世界の新聞紙上にのぼるに至」りました。同署で陸奥が引用している報道記事によると、「この際に殺戮を免れたる清人は、全市内わずかに30有6人に過ぎず」、これは、殺された「同胞人の死屍を埋葬するの使役に供するがために救助し置かれたる者」だと書かれています。外国の新聞は、日本が『文明国』ではなく、「野蛮の本体を露した」などと避難しています。『日本外交文書』には、アメリカ公使などのこの事件に関する厳しい申し入れなどが載っています。

日本軍の侵略に対して再蜂起

ところが日本軍は、前章で述べたように7月23日朝鮮王宮の軍事占領を強行しました。これはたちまち広く朝鮮に知れ渡り、怒りが広がりました。続いて日本軍は、7月25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦闘で日清戦争を開始、朝鮮はその戦場になります。しかも、清国軍を朝鮮から駆逐しても撤兵しません。東学農民軍は、日本軍を朝鮮から追い出すための戦いに再蜂起し、日本軍と日本軍に指揮された朝鮮政府軍と各地で勇敢にたたかいました。

しかい武器らしい武器も持たない農民軍は、近代的兵器で武装した日本軍を主体とした日本軍・朝鮮政府軍の連合軍に敗れました。日本軍は、農民軍が再起の余地がないように「ことごとく殺戮」する方針を貫き、その鎮圧ぶりは徹底したものでした。東学農民軍の犠牲者は3万人あるいは数万人ともいわれます。

先駆的農民の犠牲者は3万人以上

報告書は、日本軍部の報告資料にもとづいて、「潜伏する東学党を捕獲し、……当時中隊において銃殺せり」「当中隊2名の賊を銃丸太打殺す」「潜伏する東学党十数名捕獲せし内、証拠顕著なるもの6名あり、命に依り、銃丸、打殺す」など討伐作戦中に日本軍がおこなった処刑の事実も明らかにしています。こうして日本軍と朝鮮政府軍による殺害は、3万人以上、数万人に及ぶとされます。日清戦争における日本兵の戦死・戦傷者は、全体で1417人です。それに比べて、東学農民革命鎮圧作戦の残酷さがよくわかります。その壊滅作戦の主体は日本軍であり、その指揮者は大本営だったのです。以上は、防衛省研究所の図書館に保存されている日本軍の文書など、公文書が明らかにしています。

反日義兵闘争に引き継がれた東学農民革命の精神

東学農民革命はその後、日本帝国主義の干渉と侵略に対して朝鮮人民が武器を持って戦った反日義兵闘争に引き継がれました。ところが日本は、この義兵闘争にも襲いかかり、その討伐作戦によって日本軍の発表でも18.000人近い義勇兵を殺害しました。義兵闘争は、自発的な愛国の戦いとして、高く評価されてきた人民の闘いです。義兵闘争の直接の原因は、1895年の日本による朝鮮の王妃・門妃殺害事件と朝鮮政府が行なった断髪令でした。これによって鬱積していた反日感情と怒りに火がつき、各地で日本人とこれに追随するものが襲撃されました。東学農民運動の残存者は義兵に参加しました。

義兵闘争は、日露戦争で朝鮮を戦場にしたことと、保護条約で韓国を保護国にしたことに対する怒りの爆発として、激しく本格的に戦われました。さらに1907年、ハーグ密使事件を契機に最高潮に達し、1908年の春から韓国全土で義兵が立ち上がりました。日本は朝鮮軍の抵抗を抑えようと軍隊の解散を命じますが、解散式で軍隊が蜂起して日本軍との戦闘となり、義兵に合流して全国に燃え広がりました。日本はこれを軍事力で鎮圧して、「併合」の強行となったのです。

これらも、日本による人民の闘い鎮圧の戦争というべきです。なかでも軍隊解散式での戦闘は、弾圧に当たった日本軍は韓国兵を機関銃で「猛烈に射撃せり」といった戦闘になり、「韓国の戦死将校以下70余名負傷将校以下104名捕虜600名に達す。というのです。わが軍の損害は戦死者梶原大尉以下4名、負傷、将校以下21名となっています。

全村焼き払うなど、過酷をきわめた討伐作戦

全体として日本軍は「討伐」に手段を選ばず、次のような、全村を焼き払うこともやったと書いています。「…全村を焼夷するなどの処置を実行しつつ三河地方の如き見渡す限り、ほとんど焦土たるに至れり」と書かれていました。

杉山参謀長は”百日戦争は一ヶ月、南方作戦は三カ月”と天皇に

当時の軍部の文書を見ると、長期戦になれば戦えないというのが本音でした。とくに海軍はそうで、山本五十六・連合艦隊司令長官は、近衛首相に「日米開戦の場合、海軍作戦に関する限り持続力は一ヶ月半であると所信を明らかに」しています。永野修身・海軍軍令総長は、開戦のおよそ三か月前に、帝国は各般の方面においてとくに物が減りつつあり、すなわち痩せつつあり。これに反し敵側はだんだん強くなりつつあり。

時を経ればいよいよ痩せて足腰立たぬ。……開戦時期を我が方で定め先制を占むる外なし、之によって勇往邁進する以外に手がない」と述べています。軍も自信がなかったのです。ところが、戦後近衛元首相が明らかにしたことですが、こういう見通しのない戦争だったにもかかわらず、軍部は短期に勝利できるような楽観論を昭和天皇に述べて、逆にたしなめられたという内幕までありました。対米英戦争の方針を実質的に固めた9月6日の御前会議で杉山元・陸軍参謀総長は、戦争の見通しについて昭和天皇から聞かれ、「南方の作戦は三カ月ぐらいで片づける」と答え、天皇にその甘さを指摘されています。

その昭和天皇にしても、御前会議の前に「10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとした「帝国国策遂行要項」を、「よし分かった」とし、9月10日には「動員をやってよろしい」と許可しています。日中戦争にしろ、太平洋戦争にしろ、戦争の見通しなど真剣に検討しないで安易な判断により、開始したものだったことをさらけ出したものとしかいいようがありません。天皇にこういうぐらいですから、国民に対しても責任あることなど言うはずもありません。国民の多くは「最後には神風が吹いて勝利する」と叩きこまれたのです。

欧米に代わって新たなアジア支配を狙った侵略戦争

そもそも「大東亜共栄圏」とは何だったんでしょうか。「中国並びに東南アジアに対する日本の侵略を正当化するイデオロギーとスローガン」だったと『新版日本外交史辞典』は述べています。これが客観的な評価といえます。よく引用されますが、「大東亜攻略指導要綱」は、「領土的野心はない」という宣伝とは違い、満州、中国、タイ、仏印(フランス領インドシナ)ビルマ、フィリピン、その他の占領地域を日本の支配地域とし、そのうちマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは、帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民新把握に務む」と決めていました。第一次政界大戦後、戦争が違法とされ、民族自決が叫ばれ、中国の主権を尊重する「中国に関する9カ条約」が結ばれた世界で、日本の戦争はそれに逆らい、「アジア解放」ではなく欧米の植民地支配に代わってアジアの支配者となろうとする侵略戦争に他ならなかったのです。

宣戦布告文にある戦争目的を正当化

それから60年以上がたち、戦争の実態もいっそう明らかになっています。サンフランシスコ講和条約で日本政府も受託した東京裁判の判決は、「これは挑発を受けない攻撃でありその動機はこれらの諸国の領土を占用しようとする欲望であった。『侵略戦争』の定義を述べることがいかに難しいものであるにせよ、右の動機で行なわれた攻撃は、侵略戦争と名付けないわけにはいかない」と述べています。日本の戦争は全面的に、国際社会によって断罪されたのです。

その侵略戦争を靖国神社は、東条と同じ理由をあげて正当化しています。1995年に出された、自民党歴史・検討委員会『大東亜戦争の総括』も、東条と同じく、戦争の正当性を内外に示そうとする宣伝文書でもある「宣戦の詔書」によって戦争目的の全面的正当化をはかろうとしています。これらの人々は、戦後60年余、アジアと日本国民に計り知れない惨禍を与えた戦争から、何も学びとろうとせず、ただ、正しい戦争だった、その責任はアメリカや中国にあると、戦争開始にあたって軍国主義者が言ったことと同じことを考え続けてきたのでしょうか。従軍慰安婦にされた人、強制連行された人、毒ガスにいまだ脅かされている中国人民はじめアジア諸国人民は、こんな議論を許すはずがありません。



『日本の戦争はなんだったか』 

吉岡吉典 1928島根県 元日本共産党参議院議員


加藤  |MAIL