加藤のメモ的日記
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| 2013年05月24日(金) |
勝者と敗者の近現代史 |
1943年は、ヨーロッパではヒトラーの軍がソ連のスターリングラードに猛攻を加えるが落とせず、ドイツが全面的に負け始める転機でもあったが、東では日本が時を同じくして負け始める。1943年2月のガダルカナル島からの撤退、4月には連合艦隊司令長官の山本元帥がベイ機に撃ち落とされて戦死して国葬が行なわれたことは、制空権をアメリカに完全にとられてしまったことを意味していた。5月には、北方のアッツ島で守備隊が全滅し、その時初めて「玉砕」という言葉が使われる。
全般的に戦局を見れば、日本軍が緒戦の勝利の勢いに任せ、あちこち手を伸ばし過ぎた結果、長くなりすぎた補給路を反撃に転じた相手側によって寸断され、兵員および物資を運ぶ船が次々に撃沈され、日本に制空権、制海権がなくなると、相手の飛行機と潜水艦の魚雷が威力を発揮し、ほとんど100%日本の船がやられてしまうという状況になった。アメリカの反攻作戦は一つ一つの島を順次抑えるのではなく、戦略上重要な島のみを押さえる飛び石作戦をとったため、後に残された島にいる日本兵はやがて飢えに苦しむ事態となった。
一般市民の多大な犠牲
日本の海軍の思想が、日露戦争の時以来の大鑑巨砲主義をとってきたため、相手の艦隊を洋上で捕捉し、大海戦で敵艦隊を壊滅するという考え方にとらわれ過ぎたのである。 日露戦争の日本海海戦でロシアの艦隊を敗退させた成功例は実は時代遅れで、太平洋戦争では、飛行機とそれを運ぶ航空母艦の方が立派な戦艦をつくるよりも有効であった。皮肉なことにそれを最初に実証したのが、日本の海軍だったのである。
ハワイ真珠湾攻撃は、航空母艦に飛行機を載せて、近づいてそこから発信した航空隊がアメリカのハワイの軍港にいた大きな戦艦を次々に沈めてしまった。奇襲攻撃だから成功したともいえるが、日本は航空機中心主義という考えになかなか頭を切り替えられず、戦艦大和、武蔵という、当時の世界でも最も大きく絶対沈まない不沈戦艦を莫大な予算と日本の最高の技術を傾けてつくっている。しかも二つとも最後まで戦果を上げる機会もなく海に眠ることになった。
とくにアメリカとの戦争が始まってから急ピッチでつくった武蔵は、1944年10月にレイテ沖海戦に参加し、他の約30隻の艦船とともに全滅している。大和は、1945年4月沖縄にアメリカ軍が上陸した直後に、沖縄沖へ出撃しようとして、その途上で米軍機の波状攻撃を受けて沈んでいる。大和は世界の常識を超える巨大な大砲をたくさん揃えていたが、それが火を吹くことなしに悲惨な最期を遂げたのである。
学徒出陣した吉田実という優秀な人が、沖縄に出撃する戦艦大和に海軍士官として乗務し、戦艦大和と運命を共にするが、奇跡的に生存し、敗戦後軍から復員、日銀に勤めて要職につき、鎮魂をこめて『戦艦大和ノ最後』という傑作を残している。3000名を超える将兵のうち、ほとんど生存者がいない最期はやはり悲劇的である。イギリス労働党の代表的理論家ジョン・ストレイチは、日本の真珠湾攻撃の決定を独裁政治の失敗の例としてとり上げ、この作戦で日本は夢物語のような至難の技を驚くべき能力で見事成し遂げたが、大局的な知恵において致命的欠陥を示したと述べている。
一方、1944年7月、サイパン島が陥落、8月にはグアムもテニアンも落ち、直ちにサイパン、テニアンがB29の一日で日本を空襲して帰ることが可能になり、さらに翌1945年、硫黄島が壮絶な日米双方の死闘の末、3月17日に守備隊が全滅、失陥する。1944年7月、開戦内閣だった東条内閣は、サイパン陥落後総辞職した。この年の11月に、東京にB29が初めて空襲、これはある意味では偵察的な空襲で、翌1945年、3月10日の東京大空襲を皮切りに、東京、名古屋、大阪、神戸と都市爆撃が繰り返され、空襲を受けた日本の都市は126にも上り、空襲による死者はおそらく50万人を超えたと推定されている。
3月10日未明の東京大空襲はわずか2時間半で、10万人が死に、その犠牲者のほとんどは一般市民だが、その日の正午の大本営発表では、この市民の死については全く触れていない。ただ、宮城のなかの主馬寮、つまり馬小屋が焼けたというだけで、一般市民の犠牲は無視されている。あの夜の東京下町の状況は、戦地の兵隊さんとそれを支える銃後の国民という構図が、一瞬にして完全に崩壊したことを教えている。あの夜は、東京の下町一帯が戦争の最前線だった。にもかかわらず、日本人の観念はその後も変わらず、軍人、軍属の戦死と、戦争による一般市民の死とを区別し、一般市民の犠牲については調査もなく保証もない状態が続いている。
このとき、東京下町の横川国民学校の教師で、たまたま3月9日から10日の宿直に当たっていた井上雄一は、鉄筋コンクリートの校舎は安全と避難してきた1000人の人が焼夷弾による火で溶鉱炉と化した校舎で焼き殺された惨状のなか、奇跡的に生還し33年後にやっとその体験談を「憶横川国民学校」という短い詩に託し、絵日記のようなスケッチを残している。『東京大空襲』(井上有一)。
沖縄戦では日本軍は上陸するアメリカ軍と戦わず、初めからゲリラ戦法をとることになり、ゲリラ戦法では当然のことながら軍と市民が一体となってしまって、結局市民を全部戦争に巻き込んでしまう。兵隊が約10万人戦死しており、市民も10万人以上死んだと考えらえている。つまり、126都市の空襲で死んだ人が約50万人、広島、長崎の原爆による死者が約20万人、そして沖縄戦で死んだ市民が10万人以上。これを合わせると、わずか5カ月の間に一般市民の死者は80万人となる。
思えば、1942年(昭和17年)4月18日、日本国民が緒戦の大勝利に沸き立っていた時、日本に接近した空母から飛び立ったアメリカのドゥリットル指揮官によるB25爆撃機16機が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲し、そのまま中国に着陸するという離れ業を行なったが、あれこそ、後に始まる悪夢の不吉な兆しであったのである。
敗戦国ドイツでは
第一次世界大戦は、人類に1.000万人の死者を伴う総力戦という新しい試練を与えた。19世紀では人類は、アメリカの南北戦争で南北合わせて60万人の死者を数えたのを例外とし、20世紀のような総力戦を経験することはなかった。日本は第一次世界大戦では斃死のみならず一般市民までの総力戦の悲惨さを味わうことなく済んだため、軍事的にも思想的にも日清、日露の役の延長として20世紀を迎えた。日本は第二次世界大戦になって、しかも敗戦直前の5カ月前に集中して、3月10日の東京大空襲に始まる都市爆撃、沖縄戦、広島・長崎の原爆で兵士のみならず一般市民80万人を失い、20世紀的戦争の過酷さに打ちのめされる。
第二次堺大戦での犠牲者はある研究者によれば1億2.000万人に達するという。日中戦争における中国の犠牲者は死者2.000万人(日弁連調べ)とも死傷者3.500万人(江沢民前中国国家主席)ともいう。わが国でも兵士と市民合わせて盧溝橋事件以後、310万人の犠牲者を生んだ。岡倉天心は『東洋の目覚め』の中で「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である」という言葉を記しているが、第二位世界大戦での敗北は、再び日本人の心のどこかに屈辱と怨念を植え付けている。
同じ敗戦国のドイツは、第一次世界大戦ではベルサイユ条約に対する怨念でワイマール体制下の自由な選挙を通じてナチスに政権を与えてヒトラーによる対英仏、対ソ戦争に道を開き、再び敗戦の苦汁をなめたため、第二次世界大戦後においてはフランスなど西側との間に経済共同体を築き、一方、ポーランドなど東欧諸国との間に東方外交を展開して、不信を信頼の関係に変えることに成功し、今日のEU(ヨーロッパ連合)の土台をつくった。今なお日本は明治以来のアジア観を根底から見直す機会を失い、アジアとの付き合い方で苦しんでいる。
歴史を解く鍵は文明
20世紀の特徴として、このほか人口爆発、核兵器の出現に至る科学技術の発達、民族自決と難民の発生、とくに一世紀にわたる中東問題の未解決を挙げることができる。かっての犠牲者がまた新たな犠牲者を生む加害者となるという厳しい構図を見るとき、加害者が被加害者に率直に詫びるとともに、被害者が加害者を許す(例えば南アフリカのマンデラ大統領、韓国の金大中大同僚の例)意外に解決の糸口はないように思われる。
イギリスの歴史家ボブズボームがいうように、20世紀は「短い世紀」であった、19世紀には周辺国にすぎなかったアメリカとロシアが歴史の主導国になったが、それは国際的民主主義、国際的共産主義という普遍的な訴えを、それぞれが持っていたからである。しかし、ソ連邦の崩壊は、マルクス主義者の核心の基礎であった、19世紀以来の歴史的発展段階説(古代社会―封建社会―資本主義―社会主義―人類最高段階としての共産主義)の崩壊を意味していた。そして、本流の如き東欧革命にはマルクスやレーニン、毛沢東に匹敵する理論化は見当たらず、ただ人間の自由を求める叫びのみがあった。
冷戦終結後、アメリカは遂に一極支配を手にしたかに見える。しかし、それはイスラムという巨大な異文明を抱え込んでしまったことを意味している。我々は、「歴史を解く鍵は国家、民族、階級ではなく、文明である」と主張したトインビーの『歴史の研究』をもう一度ひもとかねばならないのかもしれない。ローマ帝国は衰退の原因をゲルマンという外的プロレタリアアートの圧力とキリスト教という内的プロレタリアートの台頭に求めるトインビーの説は、21世紀初頭の世界に適用できるのであろうか。プロレタリアアートとは、基本的決定から外された社会的集団のことである。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、第二次世界大戦後40年を記念してドイツ連邦議会で「荒れ野の40年」と題する演説を行ない、「過去に盲目な者は現在も盲目となる」と警告したが、また別の演説では、「我々は、今まことに珍しい歴の中の局面に生きている……我々は歴史が提供するこの好機を認識し、それを利用するのか、それともそれを捕え損なうのか…」と、東西ドイツ統一後のドイツ人に呼びかけている。(1991年)私は勝者の成功例よりも、敗者であることを受け止める勇気を持った者の言葉に、将来への教訓を見出すべきだと感じている。
思い起こすと、日清戦争の下関での講和条約で、照射だった日本は敗戦国たる清国から当時の日本の国家予算の4年分以上を賠償としてとりたてたが、1945年の日本の敗戦に際しては、勝者となった中国は蒋介石政権も、また毛沢東政権も平和条約調印にさいし、日本に対し賠償を支払うよう請求する権利を行使しなかった。勝者はいつか敗者となり、敗者もまた勝者となりうる。勝者は、また敗者は、その勝敗をどう受け取るべきか。21世紀の日本は、その問いへの答えいかんにかかっているようにも思われる。
『勝者と敗者の近現代史』 川上民雄
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