加藤のメモ的日記
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2013年05月12日(日) 絶対ボケない生活

認知症の定義

そもそも認知症とは、いったいどんな病気なのか。これは人によってさまざまな説明の方法があるだろうが、私なりの定義を記しておこう。

認知症とは、粗大なる記憶障害により、自分が行なった行為自体をすぐに忘れてしまったり、私は誰、ここはどこ、今はいつかという見当識を失い。自分の目の前の相手が誰だがわらなくなり、徘徊をはじめとする通常の一般的な社会生活を営めない状態になる、進行性の病気である。この粗大なる記憶障害というのは、単なる物忘れや置忘れとは根本的に違い、例えば、いま食べたことを忘れてしまったり、5分前に入浴したことを忘れるという、普通の人間なら決して起こることのない記憶障害である。「粗大なる」ということは、「大きな」に変えてもいいし、「まさかと思われる」にしてもいい。つまり、粗大なる記憶障害というのは、通常信じられない記憶障害のことだ。

また見当識というのは、覚えようとしなくても理解している記憶のことで、たとえば、普通の人間であれば、今が朝か夜か、季節は春か秋か、目の前にいる人が家族かそうでないかなど、いちいち確認しなくても理解できる。そうした記憶のことを見当識というのだが、これを失ってしまうのが認知症である。

なぜ公務員はボケ、政治家はボケないのか

多くの人が老年期に入る。しかし、そうした中からやがてボケる人と、亡くなるまでボケない人が出てくる。一方は家族に迷惑をかけ、もう一方は死ぬまでボケなかった。助かった。と感謝される。親として、子供に感謝されるのは、いかに財産を残したかででもなければ、子供を立派に育てたか、でもない。実に単純なこと、晩年にボケたか、ボケなかった、である。どんなに立派な父や母であっても、有り余るほどの財産を残そうともボケたままで10年も生きれば感謝されないし、財産がなくても死ぬ寸前まで元気で気がついたら亡くなっていたとしたら、「うちの親は立派だった」と称される時代である。晩年、人間がボケるかボケないかは、それまでの人生を丸ごと左右する大ごとなのである。

ボケる、ボケない、その差はいったいどこから出るのか。認知症の診察を続けながら、私はそんな素朴な疑問を研究し続けてきた。そして私はまず最初に、一つの結論に達した。ボケるかボケないかは、その人が長い間就いていた職業と関係があり、現役時代に抱いていた意欲が、老後まで持続しているかどうかで決まる。ということであった。

意欲は、前頭葉、側頭葉などの脳の各分野を刺激する。意欲はやる気を生み、やる気は行動を起こさせる。行動は人との積極的な接触を必要とし、それがまた新たな脳の活性化につながる。従って、そうしたことを日頃から訓練し、必要とする職業に就いていた人たちは老後も意欲をもちつづけ、それがボケを寄せ付けない。極論を言えば、若い時から意欲を持ち続け、それを活かす職業に就いている人は常に脳を上手に使っているから、歳をとってもボケないのだ。

その代表が政治家である。選挙の時のあのガンバリ、あれこそ欲のない人達には絶対真似できない芸当であり、当選したらしたで、いろいろな肩書を欲しがる名誉欲、利権に絡まねばいられない金銭欲、大臣になろうとする権力欲…自分たちの利益になることだったら、国民も騙しかねない強欲の持ち主でなければ、政治家にはなれない。良い悪いは別にして、この満々たる意欲。この意欲こそが彼らの脳内を常に刺激し続け、さらに全国を飛び回っているのだから、体力を維持しいつまでも元気であり、まさにボケている暇などないのだ。かって、田中角栄が晩年ボケたのは、失意と病気のせいで、他の政治家たちはたとえ引退しても隠然たる野望を抱いているから、基本的に政治家は最後までボケないといっていいだろう。

古い言い方で恐縮だが、公務員は親方日の丸という思想で競争意識もなく、生活も安定している。他の職業と比べて生活も安手している。だとすればそこには労働意欲もないわけだから、歳をとった時脳を駆使する必要もないままやがてボケるというわけだ。脳は使わないと衰える。脳の病気でもないのに、脳が委縮してボケるのは、足の骨や筋肉が衰え、足が人間を支えられなくなるのと同じことで、人格すら脳は守ろうとしてくれない状態なのだ。それに比べて、もういい加減にリタイアすればいいのに、70代になっても選挙カーに乗って、必死になって当選を訴えている政治家たち…。公務員がボケやすく、政治家はボケないという理由である。

ボケた人をどう介護したらいいか

実はボケた人の頭の中は、ものすごく不安感に苛まれていると思う。だから、そこで大声で怒鳴ると、さらに恐怖感が加わってひたすら引きこもるか、別の行動を起こす。つまり、ボケが一気に進行するわけである。こうした時に、自分が長く住んで遺体絵ならば柱のキズや台所の鍋釜、あるいは近所の人の顔から記憶を取り戻し「ああ、ここは私の家だ」と安堵し、あの怖い女性は自分の嫁だったとわかるのである。

それまでできていたことが、できなくなった

お年寄りのボケは、「なんだかおかしいな」と本人が漠然とした不安を感じることから始まる。この段階で本人が家族や配偶者に「なんか頭がモヤモヤして変だよ」と訴えればいいのだが、多くの場合、そうした不安を抱えたまま、誰にも告げない。そして「おかしい」と思いながら、日常生活の中で次第に生きる意欲を失い、やがて家族が気がついた時には、本格的なボケの状態に陥ってしまっているというケースが圧倒的だ。

たとえば、ある日、おじいちゃんがいつものように暖房をつけようとリモコンのスイッチを押したが、まったく機能しなかった。なぜなら、おじいちゃんが手にしていたのは、テレビのリモコンだったからだ。こんな時のおじいちゃんの頭の中を想像してほしい。〈とうとう俺は、エアコンもつけられなくなったか…〉そう思ったら、かなり落ち込んでしまう。その失望感は私たちが考える以上だと思ってあげてほしい。そうなれば、考えは悪いほう悪いほうへと向かっていくことはもうおわかりだろう。実は、ここがボケの入り口なのだ。家族や配偶者にとって、このおじいちゃんの気持ちに気がつくかどうか、ここが肝心だ。

「あれ、おじいちゃん、こんなに寒いのに、どうして暖房を入れない?」「これがエアコンのリモコンだよ。ここにおいておくからね」というように。家族や配偶者に本人の自信を取り戻させることができれば、たとえ、ボケの入り口に佇んでいようと、そのままの段階でいられるのだ。

手に負えなくなったら一人で背負わない

しかし、「ご飯、まだか」とか、「嫁が盗んだ」などという認知症は日常生活にそれほど支障がなければいいとしよう。ところが認知症の恐ろしさは、そこにとどまらない。「ひどい徘徊」「排泄物をこねる」「暴れる」「火の不始末」などといった日常生活に差し支えがあるところまで人によっては進行する。そんな時は、どうしたらいいのだろうか。私は、そうした介護を家庭でみるのは難しいと思う。清水由貴子さんのような悲劇が必ず待ち受けているからだ。

なぜなら、完全にボケてしまった人は、ボケる前の人とは別人格なのだ。それを昔のお母さんやお父さんだと思うから、介護は辛いのだ。ボケた母親を娘がみるのは美しい話だ、母親の方は、娘とわからないし、別の人格。その上、何もわからない。清水由貴子さんが追い詰められていったのは、母親だと信じて一人で頑張ったからだ。また、そういう風土が昔の日本にはあった。だが、その考えは改めよう。わからなくなった時から、もう、母ではないのだ。誰かの犠牲の上の介護には限界がある。だから社会が支えていかなければならない。そのために介護保険制度が誕生したのだが、まだまだうまく機能していない。

公共施設に入れたいが、どこも何万人待ちという状況だ。有料老人ホームには入れれば経済的に大変だ。できたら施設にもいれたくない。ではどうしたらいいか。すでにボケてしまった人は、仕方がない。問題は、私をはじめとした、これから10年後、20年後に確実に高齢者になっていく人たちである。病気になることもあるだろう。突然死ぬかもしれない。しかし、もし、生きている限り、私たちが全員ボケなければどうだろう。いまから10年後、20年後、誰もボケていない社会、それは決して不可能ではない。そして、それは何より意味がある。なぜなら、誰かがボケたことによって苦しむ家族が、どこにもいなくなるからである。



『絶対ボケない生活』


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