加藤のメモ的日記
DiaryINDEXpastwill


2013年04月30日(火) 戦乱の京都

京都といえば、神社仏閣が立ち並ぶ伝統ある町並みが思い浮かぶかもしれませんが、戦乱の都という側面もあります。京都では歴史上重要な多くの事件や争いが起きました。例えば、藤原薬子の変、保元(ほうげん)・平治の乱、南北朝の動乱、応仁の乱、天文法華の乱、足利義輝と松永久秀、三好三人衆との闘い、本能寺の変、山崎の合戦、宮本武蔵と吉岡一門の決闘、寺田屋騒動、池田屋事件、蛤御門の変、坂本竜馬や佐久間象山の暗殺、鳥羽伏見の戦いなどが挙げられます。

この中でまれに見る長期戦となった応仁の乱では、法勝寺、妙法院など多くの寺が焼失したといわれています。また、戦乱時には上御霊(かみごりょう)神社が開戦地になり、祖国寺が細川勝元率いる東軍の拠点にされました。応仁の乱以前から生じていた土一揆の襲撃などに備えて塀を高くし、濠を造る寺社が続出するなど、戦乱への備えを整えていました。織田信長が一命を落とした本能寺も、襲撃に対する備えを持った寺であったといわれます。このように多くの寺社が戦乱で失われてしまったという史実は、あまり知られていません。

室町時代後期には戦国大名たちが競って京都を目指していました。彼らは目的を成し遂げ権力を誇示するために、京都にいくつかの城を建築しました。徳川家康の築城以前に織田信長が同じく二条城として築いた城や、豊臣秀吉による伏見城、さらに秀吉が築いていた城や、さらに秀吉が築いて自ら破却↓聚楽第(じらくだい)などもありました。このように安土桃山時代になると、寺を拠点としていた方式から変化して、城郭の持つ威容によって戦乱を平定しようとしていたことがわかります。

もちろん、これらの戦国大名だけでなく、彼らとほぼ同時代に入洛(にゅうらく)した宮本武蔵や、幕末に登場した新撰組の近藤勇など、事件や争いに関わった人物にも焦点を当てています。それは、三十三間堂などで吉岡一門との決闘に挑んだ宮本武蔵や、池田屋事件などに見られる近藤勇ら新撰組と御陵衛士(ごりょうえし)の伊東甲子太郎らとの闘争を例に関わった事件の流れが説明されています。彼らが活動した足跡は、今では史跡という形で残されています。ただ、現在ではすでに焼失してしまった建物もあり、それが存在していたことを示す石碑しか残されていないところもあります。幕末期に新撰組に襲撃された池田屋などは、時代の変遷によって失われてしまった例と言えます。

このように京都は江戸時代に入ってからも、日本の重要拠点として存在し続けました。これは天皇を中心とした朝廷の存在が大きかったからであります。武家政治の元祖であった平氏やその後の足利氏などは権力を築くために朝廷を頼り、京都に政権を置きました。しかし、それは長続きせず、また、そうして創りあげた政権も早い段階で崩壊の兆候が見られます。その原因の一つは、彼らが朝廷の権力に近づき過ぎていったからだと考えらえます。これに気づき、京都から距離を置いたのが源頼朝や徳川家康でした。しかし、彼らとて京都と朝廷をないがしろにするわけにはいかず、この地にも幕府の拠点を置き、重要な人物を配しています。

こうして見るように、歴史的に見て京都は多くの人々を招き寄せ、時にはそれが元で事件や争いが起こりました。



『戦乱の都・京都 日本の歴史はここで動いた』


加藤  |MAIL