加藤のメモ的日記
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2013年04月09日(火) オウム真理教

真理教の前身「オウム神仙の会」が発足したのは1984年2月だが、麻原代表はその直後からオカルト雑誌などに例の空中浮遊ができるようになったという売り込みをやっていた。初めて取り上げたのは「トワイライトゾーン」で19855年10月号だった。それからオカルト雑誌の最大手「ムー」にも登場し、一般紙へと手を広げ、『週刊プレイボーイ』が1986年2月18日号で麻原代表の空中浮遊を見開き写真入りで紹介するまでになる。そしてテレビへの登場である。青山、上裕両氏の禁圧が生きて、オウムのマイナス面の報道は控えられた。「教主」が登場して自己宣伝するだけなのである。最終的には、テレビオがオウムをメジャーな新々宗教教団にに仕立て上げてしまった。

メディアに登場したからこそ、多数の信者を集め、お布施で財政的に潤うことができた。またどの大学の学園祭にも麻原代表が呼ばれるような状況になり、理科系エリートの「勧誘」もできるようになった。

積極支援したメディア

要するに「オウムを育てた」という点で、メディアは警察と同罪なのだ。いや警察は、犯罪者集団として育つのを見過ごしただけだ。メディアは結果的に「積極支援」となることをいくつもやっている。メディアの方が警察より罪が深いのである。メディアの側にいる人間の一人としてこの点を厳しく指摘しておきたい。

もちろん新聞は、テレビのようにオウムの自己宣伝への協力といった低次元な行動をしたわけではない。しかしどの新聞も、1995年3月22日まで「オウムを告発する」キャンペーンを展開することはできなかった。その意味で新聞は警察とほぼ同レベルだったのである。オウムについての新聞各社の論調は、「カルト教団」「世紀末」果ては「宗教についての認識に欠ける日本の社会と教育」についての一般論に解消しがちであった。この事件は麻原代表という人物の特性によって初めて起きたとしか思えないのに、社会面などの連載記事から社説などの論調、さらには社外執筆者の寄稿に至るまで共通して、そういう視点は欠落していた。

根底にルサンチマン

オウム事件のキーポイントとなるのは、麻原代表のルサンチマン(憎悪)であろう。熊本県八代市の貧しい畳職人の家に、1955年に生まれた。男5人女2人の兄弟で、下から2番目の4男だった。眼が弱いとはいえ、視力が0.1あったというのに小学校入学のときから親元を離れ、熊本の盲学校の寮で暮らした。20歳で盲学校を出て、1977年には千葉県船橋市で鍼灸師として開業、翌年には漢方の薬局を開いた。その後、新興宗教の世界をさまよい、「オウム神仙の会」の設立にたどり着いたというのが麻原代表の「遍歴」である。

永野一男は1952年岐阜県に生まれたが、小学校卒と同時に母親と二人で島根県に行く。1968年中卒と同時に愛知県刈谷市の工場に就職し、定時制高校に入ったが、2年で退社・退学。不動産会社、商品先物取引会社、ダイヤモンドの訪問販売会社などを転々とする。1978年ごろから、机といすと電話だけのペーパーカンパニーをつくっては潰し、潰してはつくる「虚業」の生活に入る。金の先物取引で得た資金を元手に、大阪市に大阪豊田商事を設立したのは1981年4月だった。

「豊田商事」主役との類似

生まれた年が3年違いの永野氏と麻原代表は、活動の分野こそ詐欺商法と「宗教」と異なるが、やったことはほぼ相似形なのである。二人とも倫理感は希薄で、かつ強烈な上昇志向を持つ点で共通していた。麻原代表についていえば、倫理観の希薄さは、1982年にデタラメな偽薬を売って薬事法違反で起訴されたことで、上昇志向の強さは、「東大」「政治家・総理大臣」を目指していたことで鮮明であろう。

活動する分野が「経済」だけに、永野氏の方が客観的な能力もあり、努力もしたといえようか。セールスマンとしての能力は評価され、株の売買などすすめる人もいた。しかし永野氏は、「スピード感がないものは嫌いだ」と見向きもしなかったという。麻原代表は自己中心的な思考をする人間で、客観的認識に欠けるところがある。1990年2月の総選挙に「真理党」の名で自らを含む25人が立候補した時、少なくとも麻原代表本人は当選するはずだと信じていたというのだから恐れ入る。

麻原代表が学んだ宗教

「オウム神仙の会」を発足させる直前の3年間近く麻原代表が所属した阿含宗は、メディアを利用して急速に成長した教団である。毎年2月京都で行なう紫燈護摩」を星まつりと称する巨大イベントにし、通信衛星を利用してイメージ作戦を展開する。麻原代表は阿含宗で幹部になることを目指して活動に励んだが、実現しなかったといわれる。退会の理由もそのあたりにあるらしいが、メディア重視の手法は十分学んだ。

阿含宗に行くまえ麻原代表は、新興宗教「GLA(心理の会)」の創始者・故高橋信二氏に傾倒した。高橋氏は、幼いころから霊的体験を繰り返し、手のひらから光を送ったり、異言で語ったりしたといわれる人物である。麻原代表が超能力、「最終解脱」を売り物にしたのは、高橋氏の手法を真似たと見られている。オウム真理教の教義がまったくデタラメであることはよく知られるようになった。原始仏教であったり、ヒンズー教であったり、キリスト教であったりする。その都合のいいところだけをつなぎ合わせるのが「麻原流」なのである。

過激なものこそ受容される

麻原代表は教団の資金集めのため、お布施、出家というシステムを作る。いかにも信徒とはいえ、こんなことが認められるかどうか、本人自身も最初は疑心暗鬼だっただろう。しかし多額のお布施も出家も受け入れられた。1989年秋から1990年2月にかけて、「サンデー毎日」の批判キャンペーン、坂本弁護士事件、総選挙での完敗とオウムへの「逆風」が続く。そこで考案されたのが同年4月「石垣島セミナー」なるものである。「オースチン彗星が近づき、日本は沈没する」との麻原代表の予言によって、信徒たちは「唯一安全な」石垣島へと駆り出された。参加料30万円を支払って参加した信者は、500人もの多数にのぼった。

その場で麻原代表は参加者に「助かりたかったら出家しかない」といった。麻原代表がどの程度意識していたかはともかく、石垣島という隔絶された場所、海岸に張られたテントに宿泊するという特殊な生活、その中にいる人間はすべて信徒だという、マインドコントロールには絶好の環境が構築されていた。セミナー不参加の信者も含め、出家者は数百人にのぼり、教団の財政は一挙に好転した。このあたり麻原代表の教団運営は試行錯誤であったはずだ。その中で、過激なものがどんどん受け入れられていった。麻原代表はむしろ、そうした既成事実に「追随」するような形で、教団運営、教義の内面で過激さを強めていったのではなかろうか。

ソ連崩壊で飛躍

そうこうするうちに、隣国・ソ連の崩壊が、麻原代表に想像もできない「飛躍」のチャンスを提供した。共産主義イデオロギーの崩壊が布教の土壌を提供するだけでなく、国家の管理システムも崩壊し、各種の兵器・武器の入手を可能にしたのである。麻原代表のルサンチマンは、極端に過激なハルマゲドン(人類の最終戦争)理論を打ち出し、それを自らの手で現実化させるという途方もない地点まで辿りついてしまった。その手段がサリンであった。

こうしてみるとオウムの犯罪は、他の宗教団体により再発する恐れなど全くないものであることが分かる。これを機会に、宗教団体ないしカルト教団についての警戒論を合唱するのは、明白な誤りでしかない。新聞に世論をリードするという意欲があるのなら、この種の認識の誤りを指摘しなければならない。ところが現実の新聞は逆に、この種の一般論を煽る立場をとっている。オウムの犯罪が、この教団に特有のものであるとするならば、自らも含めたメディアが「オウムを育てた」責任を認めざるを得ない。



『中枢腐敗』


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